明史卷二百二十七 列傳第一百十五 朱鴻謨

出自と生涯

  • 朱鴻謨は字を文甫といい、益都の人。隆慶五年(1571年)の進士。吉安推官を授けられ、諸生のうちに鄒元標を見出して手厚く遇した。南京御史に抜擢された。
  • 鄒元標および吴中行らが罪を得たとき、朱鴻謨は疏を上げて救い、言葉が張居正に及んだので庶人に落とされた。帰郷後は門を閉ざして講学し、城市に出なかった。
  • 張居正の没後、もとの官に起用され、江西の巡按に出た。水災の賦の免除を上奏し、饒州の磁器の減量を請うたが返答はなかった。また諫言によって籍を削られた者を推薦する疏を上げ、旨に背いて俸を奪われた。
  • 光禄少卿に抜擢され、大理少卿から右僉都御史に抜擢されて操江を提督し、応天・蘇州十府の巡撫に改められた。二祖(太祖・成祖)の節倹の徳を引いて上供の織造を減らすよう請い、報聞(受理のみ)となった。
  • 呉中の徭役が均しくなかったので、一律に田を基準とし、百畝に満たない者には役を課さぬこととし、県ごとに帳簿を立てて等級差を定めた。
  • 貴顕の子弟が里中の無頼と結んで悪事を働き、遠近に「謀反の企てがある」との噂が流れたので、朱鴻謨はことごとく捕らえ、上疏して変を告げた。朝議で用兵に及ぼうとしたが、兵部主事の伍袁萃が急ぎ尚書の石星に説いて調査させたので事は解けた。
  • 朱鴻謨はまもなく入って刑部右侍郎となり、在職のまま没した。葬礼も整えられず、僚属が金を出し合って調えた。刑部尚書を贈られ、恭介と諡された。