出自と地方官時代
- 李頤は字を惟貞といい、余干の人。隆慶二年(1568年)の進士。中書舎人を授けられた。典故に広く通じ、才名があった。
- 万暦の初め、御史に抜擢された。同僚の胡涍・景嵩・韓必顯、給事中の雒遵が相次いで譴責されたので、上疏して弁護したが聴かれなかった。
- 湖広・広西で軍籍を整理し、土着の民を遠方の戍に出さず近隣の衛所の軍にあてる制を請うたが、認められたものの張居正の意に背き、湖州知府に出された。蘇松兵備副使、湖広按察使に遷った。
- 鄖陽の兵変で知府の沈鈇が罪を得ようとしたとき、李頤はその冤を明らかにし、ひそかに乱の首謀者を除いた。母の喪で帰り、もとの官に起用されて陝西に赴任し、河南右布政使に進んだ。
順天巡撫としての治績と鉱税への諫言
- 右僉都御史に抜擢されて順天を巡撫し、右副都御史に進んだ。乱兵を鎮定した功で兵部右侍郎に進んだ。長安(当地の部族)が横暴であったので、李頤は総兵の王保とともにその腹心である薩喇勒ら七人を除いたところ、賊は恐れ入った。のちに別部の巴雅が侵入したので、将士を督して羅文峪でこれを破り、左侍郎に進んだ。久しくして右都御史に進んだ。
- 当時、鉱税の使者が四方に出て、馬堂は天津、王忠は昌平、王虎は保定、張旺は通州に駐在した。李頤は上疏して「燕京は王気の集まるところで陵寝に近い。掘削すれば必ず霊気を損なう」と述べた。また「畿輔は土地が荒れ年は凶作なのに、勅使の誅求は細かなものまで残さない。臨清の激変の惨事が天子の膝下で再び起こることを恐れる」と述べた。
- のち遼東の税使高淮が山海同知の羅大器を誣告して弾劾したとき、李頤はまた「内監と外の官僚とはもともと統属の関係にない。まして遼陽の鉱税が薊門に何の関わりがあるか。もしみな高淮の思いどおりになるなら、有司は一人も残るまい。陛下は天を奉ずる権をもって宇内を制御しておられるのに、今それがすべて宦官の手に落ち、朝に奏して夕には響きが声に応ずるように裁可される。たとえ弾劾が当たっていたとしても名分にかなわないのに、まして無辜の者に不当な打撃を加えるとは」と述べた。いずれも返答はなかった。
- 李頤は鎮にあること十年、威望は大いに高く、中使もその廉正を憚り、畿内の民はいささか安んじた。
- 二十九年(1601年)、工部右侍郎として劉東星に代わって河道を管理し、決壊口を築いて旧河道を浚えて長久の計とする案を上申したが、わずか二か月で過労のため没した。兵部尚書を贈られた。
- 李頤は仕官三十余年、破れた車と痩せた馬、布の衣と粗食で通した。初め御史となったとき、真っ先に胡居仁を文廟に祀ることを請うたが沙汰やみとなった。胡居仁の子孫にあたる胡希祖が幼く貧しいのを見て、娘を娶らせ家で養った。弟の李謙が早世すると、自分の蔭(子の任官特権)をその子に譲った。