明史卷二百二十七 列傳第一百十五 賈三近

出自と諫官としての建言

  • 賈三近は字を徳修といい、嶧県の人。隆慶二年(1568年)の進士。庶吉士に選ばれ、吏科給事中を授けられた。
  • 四年(1570年)六月、上疏して述べた。よく治める者は法を守って民に適するようにし、行き過ぎを除くだけである。今、廟堂の令は郡県に信じられず、郡県の令は小民に信じられない。租を免除しても徴税はますます急であり、賑済しても滞納の追及は従前どおり、刑を憐れむと言っても冤死する者が相次ぐ。正額の納入、上供の需要、辺境の費用は、毫釐でも減らそうとしてもできず、形勢に縛られてどうにもならない。しかも監司の考課は、はきはきと事を片づける人物ばかりを取って、寛平で穏やかな士を軽んじる。守令が賢くとも、民を安んじ養う心は次第に苛察に移り、慈しみ育てる念は日々徴収に奪われる。民が困らずにいられようか。有司に法を守ることを務めさせ、監司の考課で目先の功績だけを取って篤実大度の体を失わぬよう戒められたい。
  • さらに上疏して述べた。撫按の諸臣は州県の長吏を遇するのに、おおむね甲科(進士)を重んじ郷挙(挙人)を軽んじる。同じ寛容でも進士なら「慈しみ育てる」とされ、挙人なら「なおざり」とされる。同じ厳格でも進士なら「精明」、挙人なら「苛酷」とされる。それゆえ挙人は白髪になり歯が抜けるまで選に応じようとせず、あるいは足を止め衣を捨てて仕進の心を絶ってしまう。郷挙にどうして才良の士がいないことがあろう。励んでこの道に就かせ、それによって奮起を促されたい。詔でいずれも許された。
  • 再び遷って左給事中となった。貴州へ調査に赴く途中で任を解かれ、そのまま急いで帰郷した。

万暦初年の諫争と晩年

  • 神宗が即位すると戸科給事中に起用された。万暦元年(1573年)、平江伯の陳王謨が太后の外戚の縁で湖広鎮守の職を得ようとしたので、賈三近がその汚行を弾劾し、派遣は取り止めとなった。
  • 給事中の雒遵、御史の景嵩・韓必顯が譚綸を弾劾して左遷されたとき、賈三近は同僚を率いて救おうとした。供用庫の黄蠟を年二万五千とする詔が出たときも、賈三近らは諫めたが、いずれも聴かれなかった。
  • 当時は海運を行っていて舟の沈没が多かったが、賈三近の言によってその役は廃された。
  • 粛王の縉□(底本欠字)は隆慶年間に賄賂で輔国将軍として襲封し、この時さらに荘田の回復を請うたが、賈三近が二度疏を上げて争い、与えられなかった。
  • もともと賦を徴収するのに八分を基準とし、達しない者は罰を議する令があった。賈三近は疲弊した土地では一分減らすよう請い、詔で認められた。
  • 中官の温恭が関税と塩課をすべて内庫に納めるよう請うたとき、賈三近は「課税はもと辺境を養うためのもの。今、屯田は半ば荒れ、開中法は壊れ、塞下が頼るのはこれだけである。もし内帑に入れれば必ず辺の計を誤る」と述べ、議は取り止めとなった。
  • まもなく太常少卿に抜擢され、再び遷って南京光禄卿となった。休暇を願って帰郷し、十二年(1584年)に召されて光禄を掌った。その秋、右僉都御史に任じられて保定を巡撫した。畿輔が大飢饉となったが、賑貸に方策があった。
  • 召されて大理卿に任じられたが着任せず、親が老いていることを理由に帰って養った。兵部右侍郎に起用され、また親の老齢を理由に辞したが許されず、まもなく没した。