明史卷二百二十五 列傳第一百十三 梁夢龍

出自と言官時代

  • 梁夢龍は字を乾吉といい、真定の人。嘉靖三十六年(1557年)の進士で庶吉士に改まり、兵科給事中に任じられた。
  • まず吏部尚書の李黙を弾劾したが、帝はちょうど黙を厚遇していて問わなかった。陝西の軍儲の調査に出て、前の延綏巡撫王輪、督糧郎中の陳燦らを弾劾し、それぞれ罷免・処分させた。
  • 吏科都給事中を歴任した。帝が禮部尚書の吳山に怒ったとき、夢龍は山だけを弾劾しては清議の非難を受けると考え、吏部尚書の吳鵬もあわせて弾劾して罷免させた。
  • かつて上疏して、宰相の賢否は治道の隆汚に関わるとして、資格にとらわれず朝廷に名徳宿望の臣を公挙させ、聖治を輝かせるよう請うた。帝は諸臣が私に推す者があるのかと疑い、事情を述べよと責めたので、夢龍は恐れて謝罪し、俸を奪われた。
  • 順天府丞に抜擢されたが、京察の拾遺に坐して河南副使に出た。河が沛縣で決壊し、尚書の朱衡が徐州・邳州の新河を開くことを議したとき、夢龍がその工事を監督した。三たび遷って河南右布政使となった。

山東巡撫と海運の建議

  • 隆慶四年(1570年)、右僉都御史に抜擢されて山東を巡撫した。その秋、河が宿遷で決壊して漕糧八百艘が転覆し、朝議は海運の再開を論じてこれを夢龍に委ねた。
  • 夢龍の上奏。海道は南は淮安から膠州まで、北は天津から海倉まで、それぞれ商船の往来がある。膠州から海倉までは島の人や商人も時折出入りしている。そこで人を遣わし、淮安から粟二千石、膠州から麥千五百石を運ばせ、海に出て天津に達し、海路を試したが不都合はなかった。淮安から天津までおおむね二十日で達しうる。毎年五月以前は風が穏やかで帆走にとくに便がよい。まして船は近海を行き、洋中には島嶼が連なって風に遭えば寄れる。船が朽ちておらず天候を見て行けば案ずるに足りない。元の殷明略の旧路と比べても安全・便利ははるかに勝る。邱濬のいう「海に沿って運ぶ」とはこれである。河を正運、海を備運とし、万一河が通じにくければ海運で凌ぎ、河も心ゆくまで浚渫して長期の計を図りたい。また海防はきわめて重いのに、沿海の衛所は久しく怠って修繕されず、識者は将来を憂えている。いま海運を行いあわせて河防を治めるのは、国計を助けるだけでなく軍事にも益がある。
  • 章は戶部に下された。部議は、海運は久しく廃れて急には全復しがたいとして、漕司に糧十二萬石を割いて淮から海に入り天津に達させ、工部が海船の経費として銀を給することを請い、裁可された。しかし海運はついに行われなかった。事は王宗沐傳に記されている。

薊遼総督と吏部尚書

  • 翌年(1571年)冬、右副都御史に遷って河南巡撫に移った。神宗の初め、張居正が政を執り、夢龍はその門下の士であったので特に愛され、召されて戶部右侍郎、まもなく兵部に改まり、遼東に出て功のあった将士に賞賜した。
  • 萬厯五年(1577年)、兵部左侍郎から右都御史に進み、薊・遼・保定の軍務を総督した。李成梁が長定堡で土黙特を大破し、帝は宗廟に告げて捷を宣し、大いに賞賜を行い、夢龍の子一人を官に就けた。ところが給事中の光懋は、これは塞内に帰属した部族であり、游撃の陶承嚳が犒賞にかこつけて不意打ちしたものだとして、降者を殺した罪に問うよう請うた。兵部尚書の方逢時は曲げて弁解し、夢龍らも恩廕を辞退した。
  • 土黙特の三萬騎が東昌堡に侵入すると成梁が撃退した。寧遠・前屯がまた警報を発すると、夢龍は自ら精兵三千を率いて山海関を出て成梁の後援とし、二人の參將を分遣して遮撃させ、さらに繼光を一片石に移して待ち受けさせ、敵は引き揚げた。
  • 前後して永甸堡・丁字泊・馬蘭谷・養善木・紅土城・寛甸・廣寧右屯・錦義・大寧堡の諸捷を奏し、しばしば勅を賜って奨励され、その地で兵部尚書を加えられた。黄花鎮・古北口の辺牆を修築した功で太子少保を加えられ、再び子を廕して錦衣衛世襲千戶に至った。召されて部務を掌り、軍政四事を上奏した。まもなく辺防の功を録して太子太保を加えられた。
  • 萬厯十年(1582年)六月に居正が没すると、吏部尚書の王國光が弾劾されて罷免され、夢龍がその位を代わった。一か月余りで御史の江東之が、夢龍は徐爵を通じて馮保に賄賂を贈って吏部を得、孫娘を保の弟の子に嫁がせる約束をしたと弾劾し、御史の鄧練・趙楷もまた弾劾したので、致仕させられた。
  • 郷里にあること十九年で没した。天啟年間に趙南星が起ってその辺功を訴え、少保を贈られ、崇禎の末に貞敏と追諡された。