出自と戸部の整理
- 王國光は字を汝觀といい、陽城の人。嘉靖二十三年(1544年)の進士で、吳江知縣に任じられた。隣の縣で判断のつかない獄があって照会してくると、取り調べればすぐ実情をつかんだ。
- 儀封に転じ、兵部主事に抜擢され、吏部に改まり、文選郎中を歴任、しばしば遷って戶部右侍郎・總督倉場となったが、病と称して去った。
- 隆慶四年(1570年)、刑部左侍郎として起用され、南京刑部尚書を拝したが赴任前に戶部へ改められ、再び倉場を監督した。神宗が即位すると本部の事務に戻った。
- 当時、帳簿・文書が煩雑で、州縣から部に達するまでに書写・輸送・納入の諸費用がかかり、公私ともに苦しんでいた。國光は整理統合を上奏で請い、煩瑣な文書の十のうち三、四を省いて、簡便になったと称された。
- 戶部の十三司は𢎞治以来、役所が狭いため郎中一人だけが事務を執り、員外郎・主事は任官の日に一度出仕するだけであった。郎中の手が回らなければ吏胥に委ね、弊害はいっそう増えていた。國光はすべて出署させ、職務は整えられた。
- 辺境の兵糧が窮乏を告げても、諸辺の歳出および屯田・塩課を調べる手がかりがなかったので、國光は辺臣に実数を調べさせ、あわせて長期の策を立てて報告させるよう勅を請うた。甘肅巡撫の廖逢節らがそれぞれ数を条上し、浪費と横領は減った。
萬厯初年の財政改革
- 萬厯元年(1573年)の上奏。国初、天下の州縣が現地に留保した夏税・秋糧はおよそ一千二百萬石で、当時の議は寛大を旨とし、年々の支出のほかに銀百萬余の余剰があった。役所が毎年欠けなく徴収すれば州縣の備蓄はおのずと豊かになり、水旱も盗賊も災いとならない。いまは兵乱や飢饉に遭うたび京の備蓄を留め内帑を支出するが、それは役所が留保分を軽んじ、徴税に努めれば民を煩わすと言われるからで、弊はここまで来た。天下の撫按官に担当の役所を督させ、出入・留保・未納の数を報告させ、臣の部で融通して会計し、その余りで辺境を助けたい。徴収に努めない役人はすべて新令によって処断されたい。裁可された。
- 京軍が通州で糧を受け取るのに待たされて難儀していたので、國光は部の郎官一人を遣わしてこれを司らせ、坐糧廳と名づけ、書類を出せば三日を過ぎずに検査・支給させた。諸軍はこれを便とした。
- 天下の銭穀が諸司に分散していたのを併合して責任を明確にするよう請い、畿輔の府州縣は福建司、南畿は四川司、塩課は山東司、関税は貴州司、淮・徐・臨・徳の諸倉は雲南司、御馬象房および二十四馬房の飼料は廣西司に帰属させ、これが定制となった。
- 萬厯三年(1575年)の京察の拾遺で南京の給事中・御史に弾劾され、再び上疏して罷免を願ったが、帝は特に留めた。翌年(1576年)また固く請い、駅伝で帰ることを詔された。出立に際して自ら編んだ条例を『萬厯會計録』と名づけて上呈した。帝は国計に心を用いたことを嘉し、戶部に訂正させ、書が成ると詔して褒めた。
吏部尚書と失脚
- 萬厯五年(1577年)冬、吏部尚書の張瀚が罷免され、國光が代わって起用された。実政の採用、事務の繁簡の区別、守令への責任づけ、下級官のいたわり、加納(納金による任官)の廃止など数事を陳べ、みな許された。まもなく勤務評定によって太子太保を加えられた。
- 萬厯八年(1580年)、外官の考察に当たって日限を設けぬよう請い、詔して許され、あわせて過ちに巻き込まれた者には公に弁明させるよう命じられた。
- 翌年(1581年)の京朝官の大計では、張居正の意を汲んで吳中行ら五人を考察の名簿に入れた。國光は才智があり、初め国家財政を掌って建言も多かったが、ここに至って執政に制せられ、名声は初めより損なわれた。
- 給事中の商尚忠が、國光は銓選で親しい者を私していると論じた。また給事中の張世則が河南僉事に出されて國光を恨み、官を売り財貨を貪ると弾劾した。國光が再び弁明を奏すると、帝は再び慰留し、世則が私情を挟んだと責めて儀真丞に貶した。
- 居正が没すると御史の楊寅秋が國光の六罪を弾劾し、帝は怒って免職・閑住とした。のちその功労を思い、復官のうえ致仕させた。