篇首の立伝者一覧
出自と地方・辺務の任
- 張瀚は字を子文といい、仁和の人。嘉靖十四年(1535年)の進士で、南京工部主事に任じられ、廬州知府を歴任し、大名に移った。
- 諳達(俺答)が京師を包囲したとき、詔して兵部郎中を遣わし畿輔の民兵を徴発して入衛させることになった。瀚はただちに戸籍を調べ、三十丁につき一人を選び、残る二十九人にその糧を出させて八百人を得、真定へ馳せて使者に閲兵を請うた。使者はその才を称えた。
- 累進して陝西左布政使、右副都御史に抜擢されてその地を巡撫したが、わずか半年で中央に入り大理卿、刑部右侍郎に進み、ほどなく兵部に改まって漕運を総督した。
- 隆慶元年(1567年)、兩廣の運務の監督に改められた。当時、兩廣にはそれぞれ巡撫官が置かれ、事は督撫に関わらなかった。瀚は三邊の例を適用するよう請い、すべて節制に服させることとなった。
- 大盗の曾一本が廣州を掠奪すると、詔して瀚を厳しく責め、總兵官の俞大猷・郭成の俸を停めた。その後、一本が海を渡って福建を犯すと、官軍が迎え撃って大破し、銀と幣を賜った。ところがまた廣東を犯して碣石衛を陥れ、叛將の周雲翔らが雷州・瓊州の參將耿宗元を殺して賊に合流した。廷議は瀚の官秩を一階級下げて転任させることとした。その後、成が賊を大破して雲翔を捕らえたので、詔して瀚の官秩を戻し、家にあって召しを待たせた。
- 再び陝西を巡撫し、南京右都御史に遷り、その地で工部尚書に改まった。
吏部尚書と張居正の奪情
- 萬厯元年(1573年)、吏部尚書の楊博が罷免され、瀚が召されて代わった。任期が満ちて太子少保を加えられた。
- このとき吏部尚書の廷推では、左都御史の葛守禮が筆頭、工部尚書の朱衡が次、瀚がその次であった。居正は守禮の頑固さを憎み衡の驕りを嫌ったので、特に瀚を抜擢したのである。
- 瀚は資望が浅いのに突然抜擢されたので、朝廷はいっそう居正に取り入るようになり、瀚も大臣の進退はおおむね居正の指図に従い、自分の意見を出しても世論と合わないことが多かった。そのため御史の鄭准・王希元に弾劾されたが、居正の待遇が厚かったので容れられなかった。御史の劉臺が居正を弾劾したときも、あわせて瀚の陝西巡撫時代の乱脈と居正への追従ぶりを論じた。
- 居正が父の喪に遭い奪情を図ったとき、瀚は内心これを是としなかった。宮中の意を受けて瀚に居正の留任を諭させようとし、居正も自ら文書を作って瀚の属吏に示唆し、詔旨に応える形での上請をさせようとした。瀚はわざと分からぬふりをして「政府の高官が喪に奔るなら特別の典礼を与えるべきで、それは禮部の事だ。吏部に何の関わりがあるのか」と言った。居正がさらに客を遣わして説かせても動かなかった。
- そこで旨を伝えて、瀚は久しく詔を奉じず人臣の礼が無いと責めた。廷臣は恐れて相次いで居正の留任を上奏したが、瀚だけは加わらず、胸を撫でて「三綱は沈んだ」と嘆息した。
- 居正は怒り、給事中の王道成・御史の謝思啓をけしかけて他の事を拾って弾劾させ、致仕を強いて帰郷させた。
- 居正が没すると、帝はかなり瀚を思い、役所に月々の禄米を給するよう詔し、八十歳になると特に見舞いを賜った。没して太子少保を贈られ、諡は忠懿。