明史卷二百二十四 列傳第一百十二 楊時喬

字は宜遷、上饒の人である楊時喬。嘉靖四十四年の進士で、杭州の徴税では商人に自ら申告・納入させて自身は関与しなかった。隆慶元年に三つの機・九つの弊・三つの偏重を挙げた時政の上奏を行い、内外に伝誦された。栄進に意がなく二度の起用を辞し、十七年を経て復した。萬厯三十一年に吏部左侍郎として部事を代行し、温純とともに京察で内閣に連なる錢夢臯・于永清らを退けたが、沈一貫が帝を動かして考察の上奏を留めさせ、科道官はことごとく留任となった。以後、右侍郎も置かれぬまま五年にわたり一人で銓政を掌り、公平を保ったが官の空席と滞りは日ごとに増した。孫丕揚を起用してその到着を待たずに没し、行李には古びた皮衣一枚が残るのみであった。吏部尚書を贈られ、諡は端潔。

年表(5件)
  • 嘉靖四十四年1565年進士に及第し、工部主事に任じられて杭州で税を徴収する
  • 隆慶元年1567年冬、三機・九弊・三偏重を挙げた時政の上奏を行い、帝に容れられる
  • 萬厯三十一年1603年冬に召されて吏部左侍郎を拝し、着任するとすぐ部の事務を代行する
  • 萬厯三十四年1606年皇長孫誕生の恩詔に応じ、鄒元標ら二百余人の録用を上奏する
  • 1607年外官の大計の最中に交代を命じられるが、誤発と判明して撤回される

出自と隆慶初年の時政の上奏

  • 楊時喬は字を宜遷といい、上饒の人。嘉靖四十四年(1565年)の進士。工部主事に任じられ、杭州で税を徴収したが、商人自身に収入を申告させて役所に納めさせ、自分は関与しなかった。
  • 隆慶元年(1567年)冬、時政の要務を上奏した。慎むべき機(きざし)が三つ――日々朝講に勤めるのが徳を修める機、自ら章奏を裁くのが令を出す機、言を聴いて断じうるのが事を図る機。弊害の最も重いものが九つ――治体の怠慢、法令の頻繁な変更、賞罰の無秩序、支出の過多、売官の濫発、莊田による民の攪乱、習俗の奢侈、士気の卑弱、議論の空疎。勢いが偏り重いものが三つ――宦官の制しがたさ、宗室の禄の続けがたさ、辺備の振るいがたさ。上奏が入ると帝は褒めて容れ、内外に伝誦された。
  • 禮部員外郎に抜擢され、南京尚寳丞に遷った。萬厯の初め、親の養育のため去り、服喪が明けて南京太僕丞として起用され、また尚寳に遷ったが、病と称して帰郷した。時喬はもともと栄進に意がなく、二度起用され二度辞し、十七年を経てようやく推薦により尚寳卿として起用された。四たび遷って南京太常卿となった。建文帝の諡を議し、節に殉じた諸臣を祠り祀ることを上奏で請うた。その地で通政使に遷り、任期が満ちて相次いで辞職を願ったが許されなかった。

京察と沈一貫との対立

  • 萬厯三十一年(1603年)冬、召されて吏部左侍郎を拝した。そのとき李戴は既に致仕しており、時喬は着任するとすぐ部の事務を代行した。請託を断ち、交際を謝絶し、公署に泊まり込んで、贈り物は門にも届かなかった。
  • 京朝官の大計に当たり、首輔の沈一貫は自分の私する者を庇おうとしたが、時喬の方正を憚り、兵部尚書の蕭大亨に主宰させようとした。次輔の沈鯉が承知せずやめになった。
  • 時喬は都御史の温純とともに内閣の息のかかった者を力を尽くして除き、給事中の錢夢臯、御史の張似渠・于永清らはみな考察にかかった。また年例により給事中の鍾兆斗を外任に出した。
  • 一貫は大いに怒り、密かに帝に言って考察の上奏を留め置かせた。夢臯もまた楚王の一件にかこつけて再び郭正域を攻撃し、考察を主宰する者は正域のために邪魔者を除いているのだと言った。帝の意は果たして動き、特に夢臯を留任させ、さらに考察にかかった科道官をことごとく留任させ、厳旨で時喬らの報復を責めた。時喬らは恐れて弁明を上奏し罷免を請うたが、帝は問わなかった。
  • 夢臯は留任されると兆斗と組んで相次いで純を攻撃し、あわせて時喬をも傷つけた。時喬は辞職を求めた。その後、員外郎の賀燦然が考察にかかった科道官を斥けるよう請い、あわせて純が権を握って争いを好むとそしりながら、ひとり時喬だけを称え、また陛下の英断はご自身のもので閣臣に盗み動かせるものではないと述べた。その意は一貫を弁護するものであった。時喬は純と共に事に当たった以上はと、重ねて上疏して自分の貶黜を請うたが、返答はなかった。
  • 純が去ると、夢臯・兆斗も辞して帰った。帝はまた旨を下して譴責し、祖宗の朝にも考察にかかった科道を留めた例はある、なぜ今日に限って君父を疑い輔臣を誣告するのかと言い、諸臣の朋比を責め、時喬には奮って職務に励めと命じ、燦然および劉元珍・龎時雍らをことごとく斥けた。時喬は嘆いて「考察を主宰した者は追われ、考察を争った者もまた逐われた。恥を忍んでこの位に居られようか」と言い、九度上疏して病を理由に辞したが、ついに許されなかった。

吏部の運営と晩年

  • 当時、内外の欠員が多く補充されず、群臣で親の世話・病気療養の休暇を得た者や、建言によって過ちを負い譴責された者が在野にあふれ、たいてい召されなかった。時喬はそこで三百余人を列挙し、三度上奏して録用を請うた。
  • 萬厯三十四年(1606年)に皇長孫が生まれ、罷免者を起用する詔が下ると、時喬はまた左遷された鄒元標ら九十六人、除名された范儁ら百十人を列挙して上奏したが、帝は結局顧みなかった。
  • 翌年(1607年)の外官の大計では、時喬は副都御史の詹沂とともに事に当たっていたが、数日して帝が突然戶部尚書の趙世卿に時喬を代えるよう命じ、大計は中断した。これは前年の冬に批した考察の上奏がこのとき誤って発出されたためであった。輔臣の朱賡が体を成さないと帝に申し立て、帝も誤りに気づいてその日のうちに撤回した。時喬は堅く辞して引き受けようとしなかった。吏科の陳治則が、恨みを抱いて人臣の礼を欠くと弾劾し、旨が下って詰責されたので、時喬はようやく再び事に当たった。
  • 永年伯の王棟が没し、その子の明輔が襲爵を請うと、時喬は外戚は世襲すべきでないとして強く争ったが、聴かれなかった。
  • そのころ一貫は既に罷免され、言路が競ってその一党を攻撃していた。李廷機は一貫が教習した門生であるが、閣臣に欠員が出ると多くの者が彼を推し、給事中の曾于汴・宋一韓、御史の陳宗契だけが不可としたが、時喬はついに衆議に従った。まもなく黄汝良・全天叙を侍郎に推すと、一貫を攻撃した者たちはいよいよ不快となり、給事中の王元翰・胡忻が相次いで時喬を弾劾した。時喬は弁明の上疏をし、強く罷免を求めた。
  • このとき帝は時喬に銓政を委ね、しかも右侍郎を一人も置かず、ひとりで部の事務を処理させた。銓叙は公平であったが、朝廷と部の間に隔たりがあり、官が空き事が滞ることは日ごとにひどくなった。朝廷の議論は騒がしく、動けば掣肘された。時喬の官位はまだ高くなく、また温純が去って以来久しく都御史が置かれず、いっそう百僚を鎮める術がなかった。そのため上下が相凌ぎ、紀綱は日ごとに乱れ、言路がその権を収めた。時喬もまた曲がりなりに事を運ぶことが多かったが、論者はその苦心を汲んであまり咎めなかった。
  • 銓政を掌ること五年。最後に前尚書の孫丕揚を起用したが、その到着を待たずに時喬は没した。行李に古びた皮衣一枚が残るのみで、同僚が香典を出して葬った。詔して吏部尚書を贈り、諡は端潔。
  • 時喬は永豐の吕懐に学び、王守仁の学を最も嫌って激しく攻撃し、とりわけ羅汝芳を憎んだ。通政の官にあったとき上疏して斥け、仏氏の学はもともと儒と混じるものではないのに、汝芳は聖賢の仁義心性の言を借りて見性成佛の教えを唱え、我が学は直截で修為を要さぬと言う、そこで伝注を支離とし、経書を糟粕とし、躬行実践を迂腐とし、綱紀法度を桎梏として、節度を越え検束を捨て、道に背き徳を乱すことこれより甚だしいものはない、担当の役所に命じて明らかに禁じ風教を彰らかにされたい、と述べた。詔はその言に従った。

史論

  • 贊にいう。古くは冢宰が百官を統べ四海を均しくし、すなわち宰相の任であった。後代になって政柄が分かれ、明の中葉に至っては横から掣肘する者が多くなった。嚴清ら諸人は清廉公正で日ごろの行いを守り、正を秉って欠けるところがなかった。彼らが進退や得失に心を動かすはずがあろうか。
  • 孫丕揚が掣籖法を創ったのは、当時は制度をみだりに変えるものだと見る者もあったが、恣意によって私を営む弊を一掃し、長く行うに堪えるものであった。これを法に任せるやり方の良例と言わずにおれようか。要は時宜にかなうかどうかであって、古義を持ち出して難詰することはできないのである。