出自と再起
- 蔡國珍は字を汝聘といい、奉新の人。嘉靖三十五年(1556年)の進士。同郷の嚴嵩が政権を握って門下に取り込もうとしたが、國珍は応じず、南京への転出を願って刑部主事となった。七十余人の盗が長く繋がれていたのを、取り調べて実情をつかみ、半数以上を減刑・釈放した。その地で吏部に改まり、郎中に進んだ。
- 福建提學副使に出たが、親の世話のため帰郷。母の喪に遭い、服喪が明けてもそのまま出仕せず、郷里にあること二十年近くに及んだ。
- 張居正の死後、朝議で罷免された者を大いに起用することとなり、萬厯十一年(1583年)、もとの官のまま福建に赴任した。湖廣右參政に遷り、辰州・沅州を分管した。洞蠻が乱を起こし将吏が討伐を議したが、國珍は檄を送って諭し、それで収まった。
- 浙江左布政使を歴任し、右僉都御史として操江を提督し、召されて左副都御史となり、吏部の左侍郎・右侍郎を歴任して、尚書の孫鑨・陳有年とともに銓政を厳しく統べた。南京吏部尚書に抜擢された。
吏部尚書とその去就
- 萬厯二十四年(1596年)閏八月に孫丕揚が朝廷を去ると、帝は久しく後任を任命せず、部の事務は完全に弛緩し、その年十二月にはついに大選が行われなかった。閣臣と言官がしばしば言上し、翌年(1597年)二月になってようやく國珍を吏部尚書に任じた。
- 三殿が火災に遭うと、諸臣を率いて修省を請うた。まもなく罷免者を起用する詔が下り、國珍は三等に分けて、人品が正大で心術の光明な者として文選郎の王教ら二十四人、才に見るべきものがあり過失も棄てるに足りぬ者として給事中の喬允ら三十三人、他人に巻き込まれて過ちを負い自分の起こした事ではない者として給事中の耿隨龍ら三十六人を挙げ、いずれも録用を請うたが、結局握りつぶされた。
- 翌年(1598年)三月、廷臣を率いて文華門に赴き、皇長子の冊立と冠婚の挙行を請い、必ず許しを得てから退くと言った。帝が宦官を遣わして「これは大典であるからしばらく時が要る。なぜかように迫るのか」と諭したので、頓首して退出した。
- 給事中の戴士衡が文選郎の白所知の贓私を弾劾すると、國珍は弁護し、あわせて罷免を求めた。帝は聴かず、所知の名を除いた。御史の況上進が國珍の八つの罪を論じたが、帝はその誣告を察して問わなかった。國珍はそこで病と称して何度も辞職を願った。
- これに先立ち、丕揚が張位の意に逆らって去官したとき、位は自分に同調する者を引き入れようとして、同郷の國珍を強く引き立てた。しかし銓政を掌るや先例を守って位の思いどおりにならなかったので、位は憎み、國珍も去る意を抱くようになった。
- ここに至って帝は突然吏部に怒り、諸郎二十二人を貶黜した。國珍の辞職の請いはいっそう強くなり、駅伝で帰ることを許された。
- そもそも楊巍が吏部にあったときは内閣と結んで八年も位に留まれた。宋纁・陸光祖が力をもって内閣に抗して以来、権は部に戻ったものの身は容れられず、纁から國珍まで一年ももたずに去り、丕揚だけが三年を経た。当時、人々は閣臣の嫉みを議し、纁らが任を全うできなかったのを惜しんだ。
- 國珍は日ごろ学問と行いで知られ、気迫では孫鑨・陳有年に及ばなかったが、清廉な操守はこれに似ており、ともに世の人望の集まるところであった。郷里にあること十三年で没し、年八十四。太子太保を贈られ、諡は恭靖。