出自と地方・辺境の任
- 楊巍は字を伯謙といい、海豐の人。嘉靖二十六年(1547年)の進士で、武進知縣に任じられ、兵科給事中に抜擢された。
- 操江僉都御史の史襃善が大理卿に遷ったとき、巍は、東南の倭患がまさに激しく参贊も巡撫もみな罪に問われたのに襃善だけが免れ、しかも縁故で良い官に遷ったとして、吏部もあわせて処罰するよう請うた。帝は怒って選司の俸を停め、襃善をもとの官に戻した。巍は吏部の意に逆らったので山西僉事に出された。
- 參議に遷って宣府を分守。寇が侵入すると副將の馬芳を助けてその部長を撃斬し、銀と幣を賜った。まもなく陽和兵備副使、右僉都御史に抜擢されて宣府を巡撫し、巣を衝いた功を録されて二階級進んだ。一年余りで母の養育のため帰郷した。
- 二年後に召し起こされて陝西を巡撫し、屯戍の軍伍を増補し、藩府に奪われていた屯地を取り戻した。隆慶の初め(1567年)右副都御史に進み、山西巡撫に移った。管内の駅逓の銀は毎年五十四萬を徴収していたが、巍は四分の一の減額を請うた。沿辺の城堡を修築し、檄を送って大盗の李九經の一党を解散させた。再び母の養育を願って去った。
- 神宗が立つと兵部右侍郎に起用され、萬厯二年(1574年)吏部に改まり左侍郎に進んだが、また母の終養のため帰郷した。母は百歳を越えて没した。
- 萬厯十年(1582年)、南京戶部尚書として起用され、まもなく召されて工部尚書となった。功徳寺の近くに行宮を営建せよという詔があったが、巍が争ってやめになった。翌年(1583年)戶部に改まり、吏部尚書に遷った。
吏部尚書と内閣・言路
- 明の制では六部が分かれて天下の事に臨み、内閣は侵すことができなかった。それが嚴嵩に至って初めて密かに部の権を撓め、張居正のときには部の権はことごとく内閣に帰し、属吏のようにおずおずと指示を仰ぐようになって、祖制はこれによって変わった。
- ここに至って申時行が政を執っていた。巍は日ごろ清操を励み世の人望もあったが、年老いて骨がなく、多くは時行の指揮に従った。御史の丁此吕が科挙の試験場の事を論じたとき、時行および余有丁・許國らはみなこれを憎み、巍は論じて此吕を左遷したので、御史の江東之・李植らに攻撃され、時行とともに罷免を願った。帝は諸大臣の請いに従って巍らを慰留し、言官を戒めた。巍はそこで出仕を再開した。
- 居正が失脚した当初は言路の勢いが甚だ盛んで、帝もまた諸大臣の朋比を疑い、言官に摘発させて壅蔽を防ごうとした。諸大臣は攻撃されるのを恐れ、内閣と銓部が密かに寄り合って言路を制した。
- これに先立つ萬厯九年(1581年)の京察では、張居正が吏部に自分と異なる者をことごとく除かせた。萬厯十五年(1587年)再び大計に当たり、都御史の辛自修は大いに淘汰しようとしたが、巍は内閣の意に従ってこれを抑え、進士出身で貶黜されたのはわずか三十三人、翰林・吏部・給事中・御史からは一人も出なかった。賢否は混淆し、世論は失望した。
- 萬厯十七年(1589年)夏、帝が久しく朝に出ず、内外は帝が張鯨を用いられなかったために病と称しているのだと疑った。巍は同列を率いて秋には殿に出るよう請い、十月にまた請うたが、帝は不快で名を売っていると責めた。
- 巍は初め内外を歴任して大いに声望があったが、銓政を掌ってからは日ごろの人望を大きく損なった。それでも清廉な操守があり、性は温厚で、人を弾劾摘発することはしなかった。
- 翌年(1590年)、年が八十近くなったのでしばしば帰郷を願い、詔して駅伝を使わせ、禄米と従者を従来どおり給された。帰って十五年、年九十二で没し、少保を贈られた。