明史卷二百二十三 列傳第一百十一 徐貞明

字は孺東、貴溪の人である徐貞明。隆慶五年の進士で、工科給事中のとき水利と軍班の二議を上呈し、西北の古渠廃堰を復して畿輔に水田を開き、東南の漕運への依存を減らすことを説いた。譚綸・郭朝賓に阻まれて沙汰止みとなったが、貶謫先の潞河で『潞水客談』を著し、水利の十四利を論じて譚綸に讃えられ、順天巡撫の張國彦らが薊州・永平で試みて効果を挙げた。萬厯十三年に墾田使を領し、永平で南人を募って三萬九千余畝を墾いたが、遊休地を占めていた宦官・勲戚の反対と御史王之棟の弾劾により役は罷められた。萬厯十八年に没した。京東の水田は百世の利であったと論者は惜しんだ。附伝に伍袁萃がある。

年表(5件)

出自と水利・軍班の二議

  • 徐貞明は字を孺東といい、貴溪の人。父の九思は循吏傳に見える。貞明は隆慶五年(1571年)の進士に挙がり、浙江山隂縣を知して機敏で恵みがあった。萬厯三年(1575年)、召されて工科給事中となった。御史の傅應禎が罪を得たとき、貞明が獄に入って世話をしたことを咎められ、太平府知事に貶された。萬厯十三年(1585年)、累官して尚寳司丞となった。
  • はじめ貞明が給事中であったとき、水利と軍班の二議を上呈した。水利の議の趣旨は次のとおり。
  • 神京は上流に雄拠しており、兵と食は畿甸から取るべきなのに、いまはみな東南に仰いでいる。西北は古来、富強の地と称されたのに、廩を満たし卒を練るに足りないはずがあろうか。
  • 賦税は民の脂膏を絞り取るもので、しかも軍船や人夫の費えのために、常に数石を費やして一石を届けている。東南の力は尽きた。しかも河の流れは変化が多く運道はふさがることが多い。ひそかに憂いを抱く。
  • 聞くところ、陜西・河南には古い渠や廃れた堰が至るところにあり、山東の諸泉は引けばおおむね田になる。畿輔の諸郡も、支河が通っているか、渓や泉が湧いているかで、いずれも灌漑に足りる。北人は水利に習わず、ただ水害に苦しむばかりだが、水害が除かれないのはまさに水利が興らないからだと知らない。水は集めれば害となり、散らせば利となる。
  • いま順天・真定・河間の諸郡は、桑や麻の地の半ばが沼地になっている。上流の十五河のほか、猫兒灣一か所からしか排水されないのだから、氾濫し壅塞しないでいられようか。
  • いま上流で渠を浚い溝を通し、水を引いて田に灌いで水勢を殺ぎ、下流では支河を多く開いて横流を落とし、淀のうち最も低い所は水を溜めるために残し、やや高い所はすべて南人の圩を築く制にならえば、水利が興り水患も除かれる。
  • 永平・灤州から滄州・慶雲に至るまで、土地はみな葦の原だが土は実に肥沃である。元の虞集は京東の海辺の地に塘を築いて水を防ぎ稲田とすることを望んだ。虞集の意にならって南人を招き寄せて耕作させれば、北は遼海に起こり南は青州・齊州に濱するまで、みな良田となる。
  • 特に憲臣を選んで事権を与え、浮薄な議論に阻ませず、歳月をかけて目先の功を求めさせないのがよい。あるいは窮民を撫して牛と種を給し、あるいは富室に任せて徴税を緩め、あるいは健卒を選んで屯營を分建し、あるいは南人を招いて占籍を許す。成績が出たら河南・山東・陜西へと及ぼす。そうすれば東南の漕運は減らせ、西北の備蓄は常に充実し、国計は永く不足しなくなる。
  • 軍班の議の趣旨は次のとおり。
  • 東南の民はもともと柔弱で遠戍に堪えない。いま数千里の彼方から軍を勾引して骨肉を離れさせている。しかも軍壯は户丁から出し、幫解は里甲から出すので、軍一人につき百金を下らない。軍は土着でないから長く安んずる気がなく、すぐに衞官に賄って帰郷を求める。衞官はその賄賂を利とし、しかも餉を騙り取れるので、これを見逃す。これは東南の民を困らせて軍政には実の補いがない。
  • 匠班の例にならい、軍户で軍を出すべき者からは毎年その銭を徴し、土着の者を募って充てるのが便である。
  • 事はいずれも担当官に下された。兵部尚書の譚綸は勾軍の制は廃せないと言い、工部尚書の郭朝賓は水田は民を労するとして後日を待つよう請うたので、事は沙汰止みとなった。

『潞水客談』と水田十四利

  • 貞明は貶されて潞河に至ると、なお先の議は行いうると考え、『潞水客談』を著してその説を尽くした。その大要は次のとおり。
  • 西北の地は、旱れば赤地千里、長雨なら洪流万頃となる。ただ雨と晴れが時宜を得てはじめて豊年で飢えがないのだから、これを常に頼れようか。水利が興ってはじめて旱と潦に備えがある。これが利の一。
  • 中程度の人でも生計を立てるには必ず常に実る田を持つ。国家の全盛をもって、ひとり東南に食を待つのは、得策といえようか。水利が興れば余った糧が畝に積まれ、みな倉庫の蓄えとなる。これが利の二。
  • 東南の転輸はその費えが数倍である。西北に一石の収入があれば東南は数石の輸送を省ける。久しくすれば租を免ずる詔も下せ、東南の民力もいくらか蘇る。これが利の三。
  • 西北に溝洫がないので河水が横流して民居が多く水没する。水田を修復すれば河の流れを分けて水患を殺げる。これが利の四。
  • 西北は地が平らで広く、賊の騎馬が長駆できる。溝洫をことごとく設ければ田野がみな金城湯池となる。これが利の五。
  • 遊民は郷土を軽々しく離れて乱をなしやすい。水利が興れば農を業とする者は田里に依り、遊民にも帰する所ができる。これが利の六。
  • 南人を招いて西北の田を耕させれば、民も均しく田も均しくなる。これが利の七。
  • 東南には役を漏れる民が多く、西北は重い徭役に苦しむ。南は賦が多く役が少なく、北は賦が少なく徭が重いからである。田が墾かれ民が集まれば、賦が増えて北の徭は減らせる。これが利の八。
  • 沿辺の諸鎮に蓄えができ、転輸の煩わしさがなくなる。これが利の九。
  • 天下の浮浪の戸で富家に依って小作をしている者は数知れない。募って農とし、選んで兵とすれば、屯政で挙がらないものはない。これが利の十。
  • 塞上の卒に土着の者は少ないが、屯政が挙がれば兵はおのずと足り、遠くから募る費えを省き、班戍の労を蘇らせ、勾引の苦しみを止められる。これが利の十一。
  • 宗禄は膨大で継ぎがたい情勢である。いま中尉以下について禄を田で量り、その土地で自ら食わせて子孫のための長計とすれば、宗禄は減らせる。これが利の十二。
  • 水利を修復すれば古の井田にならって民の名田を制限でき、昔からの養民の政も次第に行える。これが利の十三。
  • 民と地が均しくなれば、古の比閭族黨の制にならえ、教化が次第に興り風俗もおのずと美しくなる。これが利の十四。
  • 譚綸はこれを見て讃え、自分は塞上を長く歴巡したので必ず行いうると知っている、と言った。まもなく順天巡撫の張國彦、副使の顧養謙が薊州・永平・豐潤・玉田で実施し、いずれも効果があった。

墾田使としての実施と挫折

  • 貞明が還朝すると、御史の蘇瓚・徐待が力めてその説は行えると言い、給事中の王敬民もまた特に疏を上げて推薦した。帝はそこで貞明を少卿に進め、勅を賜わって撫按の諸臣と会して勘議するよう命じた。
  • 当時、蘇瓚はちょうど命を奉じて関を巡っていたが、あらためて議を献じた。趣旨は、治水と墾田は相補うものであり、水が治まらずに田が墾ける例はない。畿輔で患いとなる水は盧溝と滹沱の二河に及ぶものがない。盧溝は桑□(底本欠字)に源を発し、滹沱は泰戲に源を発する。源は遠く流れは長く、しかも深水・易水・濡水・泡水・沙水・滋水の諸水を合わせて各淀へ散り入り、泉や渠、渓や港がことごとくその中へ注ぐ。それゆえ髙橋・白洋の諸淀は、大きいものは周囲一二百里、小さいものでも四五十里に及ぶ。夏秋の長雨のたびに肥沃な地が塩分の土に変わり、豆や麦が葦に変わってしまう。まことに惜しむべきである。いま治水の策は三つ、河を浚って水の壅塞を切り開くこと、渠を通して淀の勢いを殺ぐこと、勝手な堤防を撤して民の利を均しくすること、これだけである、というものであった。
  • 帝はこれをともに貞明に下した。貞明はみずから京東の州縣を歴巡し、高地と低地を検分し、土地の適性を測り、水と泉の分合をあまねく見て、事宜を条列して上呈した。户部尚書の畢鏘らが力めてこれを賛け、貞明の疏議を採って六事とすることを請うた。
  • 郡縣の有司は墾田の勤惰をもって成績の上下とし、貞明の推挙・弾劾に委ねる。
  • 稲に適する土地は次第に勧め導き、黍や粟に適する所はもとのままとして、急に成果を責めない。
  • 南人を召し募って衣食と農具を給し、一人が十人に教えるようにさせる。田を百畝以上墾けば世襲の家業とし、子弟は寄籍して入学できるようにする。とりわけ明らかな効果を挙げた者は、古の孝弟力田の科にならって、郷遂都鄙の長を量って授ける。
  • 荒地を墾く力のない者には穀を貸し、秋の収穫で官に返させ、旱や長雨のときは免除する。
  • 郡縣の民壯の役は三か月に止め、河を浚い草を刈らせる。
  • 墾田には専門の工を募る。
  • 帝はことごとく従った。その年九月、貞明に監察御史を兼ねさせ、墾田使を領させ、妨げる有司は弾劾して処罰できることとした。
  • 貞明はまず永平へ赴いて南人を募って先導とし、翌年二月までに三萬九千余畝を墾いた。さらに諸河をあまねく歴巡し、源を究め末を尽くして大々的に浚渫を行おうとした。
  • ところが宦官や勲戚で遊休地を占有して家業としていた者たちは、水田が興れば自分の利を失うことを恐れ、争って不便を唱え、蜚語を帝の耳に入れた。帝は惑わされた。三月、閣臣の申時行らが風霾に際して時政を陳べ、力めてその利を説いたが、帝の意はついに解けなかった。
  • 御史の王之棟は畿輔の人で、水田は必ず行えないと言い、あわせて滹沱を開くことの不便を十二か条陳べた。帝はそこで申時行らを召見して役を止めるよう諭した。申時行らは開河の事を罷めてもっぱら墾田を行うよう請うた。まもなく工部が王之棟の疏を議したが、これも閣臣の言と同じであった。帝はついにこれを罷め、建議した者を追罪しようとしたが、閣臣の言によって止めた。
  • 貞明はそこでもとの官に戻り、まもなく休暇を乞うて帰った。萬厯十八年(1590年)に没した。
  • 貞明は識見が鋭く才が練れており、慨然として経世の志があった。京東の水田は実に百世の利であったのに、事が興ったばかりで浮薄な議論に妨げられたことを、論者は惜しんだ。

伍袁萃(附伝)

  • はじめ議が起こったとき、吳の人の伍袁萃が貞明に、民は由らせることはできても知らせることはできない、あなたの言うところは言い尽くしすぎではないか、と言った。貞明が理由を問うと、袁萃は、北人は東南の漕儲が西北に割り当てられることを懼れ、必ず煩わしい言が起こる、と答えた。貞明は黙した。はたして王之棟の弾劾は袁萃の言のとおりであった。
  • 袁萃は字を聖起といい、吳縣の人。萬厯五年(1577年)の會試に挙がり、さらに三年して及第し、貴溪知縣を授けられた。兵部主事に抜擢され、員外郎に進んで職方の事を署理した。李成梁の子の如楨が錦衣大帥となることを求めたが、袁萃が力めて争って沙汰止みとなった。
  • 出て浙江提學僉事となり、巡撫が数十人を学に寄せる牒を送ってきたが、たちどころに突き返した。廣東海北道副使を歴任した。中官の李敬が珠池を管轄しており、その参随がほしいままに人を殺したので、袁萃は捕えて法どおりに論じた。休暇を請うて帰った。
  • 撰した『林居漫録』『禪園雜志』は当世の公卿大夫を貶斥することが多く、なかでも李三才と于玉立に対してとくに甚だしかったという。

史論

  • 贊に曰く。事功が立てがたいのは、はじめには群疑がいっせいに起こり、続いて妬みの口が相次いで金を溶かすほどに攻めるからで、これこそ労苦する臣が事にあたるにあたって心を腐らせるところである。盛應期ら諸人が漕運を治め田を営んで規画したところは、軍国長久の大計であった。その効果が現れるのは数十年後になることもあり、当時は浮薄な議論が湧き起こって、ある者は役を中止させられ、ある者は罷官させられた。久しくしてはじめて人はその利を享け、その功を思う。だから、成るを楽しむことは共にできても、始めを慮ることは共にしがたい、というのである。まことにそのとおりである。