篇首の立伝者一覧
- 嚴清
- 宋纁
- 陸光祖
- 孫鑨(子の如法を附す)
- 陳有年
- 孫丕揚
- 蔡國珍
- 楊時喬
出自と地方官の実績
- 嚴清は字を公直といい、雲南後衛の人。嘉靖二十三年(1544年)の進士で、富順知縣に任じられた。清廉で民をいたわり、治績の評判が大いに高まった。
- 喪に服して郷里へ帰り、のち邯鄲知縣に補された。中央に入って工部主事となり、郎中まで昇る。京師の外城の工事と九陵の修築を監督したが、配下の吏に一銭も掠め取らせなかった。工事が成って俸を加増された。
- 続けて父母の喪(内艱・外艱)に遭い、服喪が明けて兵部に補され、保定知府に抜擢された。従来は毎年民を戸籍から徴発して京師の倉庫の労役に充てていたが、清はこれを廃止した。飢饉の救済と盗賊の鎮圧に成果を上げ、人々は前任の知府吳嶽になぞらえた。
- 易州副使・陝西參政・四川按察使・右布政使と歴任。清廉の評判により推薦の上奏が十数回も上がった。
四川巡撫と罷免
- 隆慶二年(1568年)、右僉都御史として貴州巡撫に任じられたが、赴任前に四川へ改められた。清は長く四川で官を務めていたので、属僚たちはその気風を恐れ、こぞって身を慎み、汚職で失脚する者が減った。
- 郡縣の兵が毎年成都で合同訓練(團操)を行っていたのを、清は廃止した。番人の入貢は定額を設けて制限した。有力な宗族や横暴な吏を厳しく取り締まったので、これをそしる者も多かった。
- 陝西の賊が四川の境内に流れ込むと、巡按御史の王廷瞻は「清が賊を放任した」と弾劾した。大學士趙貞吉は、賊は鄖・陝に起こって四川の辺境に害を及ぼしたもので、罪があるなら土地を守る臣を罰すべきで巡撫だけを責めるのは筋違いだと弁護した。さらに、自分は蜀の人だから清が自らを慎み民を愛し事を省いて怨みを引き受けているのをよく知っている、いま蜀は凶作で民が流亡し清を父母のように頼っているのに棄ててよいものか、事に当たる臣が国のために小民の利を図れば必ず豪族の怨みを買うのに、論者はそれを察せず深く言葉尻を捉える、海瑞が去った上に清まで罷免されれば、事に当たる臣はみな弾劾を免れず、保身だけが得策ということになってしまう、と述べた。
- 上奏は容れられず、清は官を解いて次の任命を待てと命じられた。清はそのまま出仕しなかった。
吏部尚書と晩年
- 萬厯二年(1574年)、山西巡撫として起用されたが赴任前に貴州へ改められた。両京の大理卿を歴任し、三たび昇進して刑部尚書となった。
- 張居正が政権を握っていた間、尚書のうち居正に取り入らなかったのは清ひとりであった。居正の死後、馮保の家を没収した際に廷臣からの贈答の記録が出てきたが、その中に清の名だけが無かった。神宗は深く清を重んじた。
- 吏部尚書梁夢龍が罷免されると、そのまま清が代わった。日々先例を検討して官吏の才を見分け、丞・佐以下に至るまで自ら署名し、情実で登用された者は一人も出なかった。内外の官はその清廉倹約に倣い、私的な書簡のやり取りはほとんど絶えた。
- わずか半年で病を得て帰郷した。帝はしばしば閣臣に「嚴尚書の病は癒えたか」と尋ねた。萬厯十五年(1587年)に兵部尚書が欠員となると、楊博の先例に倣って特に詔して起用・補任し、使者を遣わして出立を促したが、清の病はいよいよ重く赴任できなかった。さらに三年後(1590年)に没した。太子太保を贈られ、諡は恭肅。
- 清は初めて尚書を拝したとき、それにふさわしい服装をそろえられず、飾りのない犀の帯を締めて朝廷に出た。ある者が「公が及第したときの七品の玳瑁の帯がまだ残っているのか」とからかったが、清は笑うだけであった。