明史卷二百二十四 列傳第一百十二 宋纁

出自と地方・巡撫の任

  • 宋纁は字を伯敬といい、商邱の人。嘉靖三十八年(1559年)の進士。永平推官に任じられ、御史に抜擢されて西關の視察に出、應天の諸府を巡按した。
  • 隆慶の改元の年(1567年)、再び山西を巡按した。諳達(俺答)が石州を陥れた事件で、将士が捕らえた七十七人が斬罪に当たるとされたが、纁が取り調べると冤罪と判明し、半数近くを釈放した。
  • 静樂の民である李良雨が女に変わったという事件では、纁はこれを陽が衰え陰が盛んになる兆しとし、君子を進め小人を退けて気運を挽回すべきだと述べた。帝は嘉納した。
  • 順天府丞に抜擢され、まもなく右僉都御史として保定の諸府を巡撫した。欠員の兵籍を調べ、余分な兵を整理し、諸道からの援兵を罷めて、防禦の経費を計り知れぬほど節約した。
  • 萬厯の初め、張居正と合わず病と称して帰郷した。居正の死後、廷臣がこぞって推薦し、もとの官のまま保定を巡撫した。獲鹿など諸縣が飢えると、先に賑給を行ってから朝廷に報告した。帝は、近畿は命令を待つべきだが、被害の重い所や遠隔地は臨機に賑貸してよい、残りはすべて奏聞せよ、とした。

戸部尚書としての財政

  • まもなく南京戶部右侍郎に遷り、召還されて本部の右侍郎から左侍郎に進み、倉場の監督に改められた。定額の贖罪銀の上納を減らすこと、民壯・弓兵など既に廃止された役については民間から工食(労賃分の税)を徴収しないことを請うた。
  • 萬厯十四年(1586年)、戶部尚書に遷った。民壯の工食は既に半減していたが、さらに全廃を請う者があったので、纁は暦日の諸費用と併せて削減を上奏した。役人が賦税の徴収で定額に届かぬのを恐れて鞭打ってまで取り立てていたので、纁は役人の勤務評定を災害の程度に応じて上下させるよう請うた。
  • 山西が連年の凶作を社倉で凌いだのを見て、纁は社倉を天下に広め、贖鈔(贖罪の納入銭)を穀物買い付けの元手とし、不足すれば富人に勧募し、あるいは民に粟を納めさせて冠帶を与えるよう請うた。
  • また、辺境の兵糧という大計で最も重いのは屯田と塩の専売である、近ごろ諸辺の年例銀は三百六十一萬に増え、𢎞治の初めの八倍になっている、屯田の政を立て直し、商人に荒地を開墾させて中塩を行わせるべきだ、と述べた。帝はいずれも善しとした。
  • 帝の誕辰の賞賜として戶部の帑銀二十萬兩を出せという詔が下ったが、纁は反対の上奏を固持して従わなかった。潞王が封国へ赴くにあたり、さらに銀三十萬兩で珠寳を買うよう命じられたときも、纁は力争して三分の一を減らさせた。
  • 従来、金花銀は毎年百萬兩を進上する定めであったが、帝の即位六年目に二十萬兩を増して常例となっていた。纁は三度その増額の停止を請うたが、ついに許されなかった。
  • 纁が戶部にあった五年は各地に災害が多かったが、余剰と不足を按配し緩急を計って、報告を待たせることがなく、上下ともこれに頼った。

吏部尚書と閣臣との軋轢

  • 都御史の吳時來は、吏部尚書楊巍が高齢で辞職を求めているとき、纁の名声が自分より上になるのを忌み、二度の上疏で纁を弾劾した。纁は門を閉じて辞職を願ったが帝は許さず、巍が去るとやはり纁を後任とした。
  • 巍は吏部にあって吏の不正を止められず、事あるごとに内閣に指示を仰いでいた。纁は請託を断ち、清廉を奨め貪欲を抑え、狡猾な吏百余人を処罰し、執政(内閣)には一切報告しなかった。
  • 文選員外郎が欠員となり、纁は鄒元標の起用を擬したが裁可が下りず、再度の上疏で催促した。大學士申時行はそこで詔旨を起草して厳しく譴責させ、元標を南京へ左遷した。
  • ほどなく序班の盛名昭の官の注記に誤りがあると時行が弾劾し、序班の劉文潤が詹事府録事に遷ったときも、文潤は粟を納めて官を得た者で清職に就くべきでないと弾劾した。当時、殿閣中書には資財で官を得た者ばかりであったのに、時行は録事一つを争ったのである。纁はその意図(自分への当てつけ)を察し、五度上疏して辞職を願った。
  • 福建僉事の李琯は、時行は巡撫秦燿をかばうのに纁が罷免を議し、主事髙桂を憎むのに纁が登用を議した、そのため些細な事にかこつけて纁を追い詰め位に安んじさせないのだ、と述べた。帝は琯の言を容れず、纁の辞職も許さなかった。まもなく纁は在職のまま没した。詔して太子太保を贈り、諡は莊敬。

言行

  • 纁は重厚で見識があり、事を議するのに苟且でなかった。石星が代わって戶部を掌ったとき「某郡に余剰があり国の入用に充てられる」と言うと、纁は「朝廷の銭穀は久しく蓄えて使わぬ方がよい。搾り尽くして余さぬようにしてはならない。主上が物力の豊かさを知れば奢侈の心が生じる」と答え、星は嘆息した。
  • ある郎官が漕糧を銀納に改めるべきだと言うと、纁は「太倉の備蓄は赤く腐らせてもよいが欠乏させてはならない。ひとたび途切れれば手の施しようがない」と答えた。
  • 内外の上奏を帝が多く握りつぶし、直言があると「名を売っているだけだ」と言って罪に問わなかったのを、于慎行は帝の寛大さだと称えた。纁は憂え顔で「言官が得失を極論するのは君主の心を動かすためだ。たとえ罪が言官に及んでも、帝の心に反省が残る。すべて放置して問わないのでは、麻痺して治療のしようがない」と言った。後にその言のとおりになった。