出自と河道への最初の任
- 潘季馴は字を時良といい、烏程の人。嘉靖二十九年(1550年)の進士。九江推官を授けられ、御史に抜擢されて廣東を巡按し、均平里甲の法を行って廣の人は大いに便とした。交代して去るにあたり、後任にもその法を守らせるよう疏で請い、帝は従った。
- 大理丞に進み、嘉靖四十四年(1565年)、左少卿から右僉都御史に進んで河道を總理し、朱衡とともに新河を開いた。右副都御史を加えられ、まもなく喪により去った。
- 隆慶四年(1570年)、河が邳州・雎寧で決壊すると、もとの官で起用され再び河道を理め、決壊口を塞いだ。翌年に工事が完了したが、運船を新しい急流へ追い込んで多くを漂没させたことを咎められ、勘河給事中の雒遵に弾劾されて罷められた。
束水攻沙の治河策
- 萬厯四年(1576年)夏、再び起用されて江西を巡撫し、翌年冬、召されて刑部右侍郎となった。
- このとき河は崔鎮で決壊して黄水が北へ流れ、清河口は埋まり、淮の全流は南へ移り、高堰の湖の堤は大きく壊れ、淮揚・高郵・寳應の間はみな大きな水浸しとなっていた。大學士の張居正は深くこれを憂えた。河漕尚書の呉桂芳は老黄河の故道を復すことを議し、總河都御史の傅希摯は決壊口を塞いで水を束ねて漕へ帰すことを望み、二人の議は合わなかった。折しも呉桂芳が没した。
- 萬厯六年(1578年)夏、潘季馴に右都御史兼工部左侍郎として代わらせた。潘季馴は、故道は久しく埋まっており、たとえ浚い復しても深さ広さは今の河には及ばないとして、崔鎮を築いて決壊口を塞ぎ、遙堤を築いて潰決を防ぐことを議した。
- さらに、淮は清く河は濁り、淮は弱く河は強い。河の水は一斗のうち六が砂で、伏秋には八にもなるので、よほど急流でなければ必ず停滞する。淮の清流を藉りて河の濁りを洗い流すべきである。高堰を築いて淮を束ねて清口へ入れ、河の強さに対抗させ、二つの水を並び流させれば、海口はおのずと浚われる。呉桂芳が開いた草灣も、あらためて修治する必要はない、と述べた。
- そこで六事を条陳して上呈し、詔で議のとおりとされた。翌年冬に両河の工事が完成し、さらに翌年春に太子太保を加えられ、工部尚書兼左副都御史に進んだ。
- 潘季馴ははじめ河上に至ったとき、虞城・夏邑・商邱を歴巡して地勢を測った。旧黄河の上流は新集から趙家圈・蕭縣を経て徐州の小浮橋へ出るところがきわめて深く広かったが、嘉靖年間に北へ移ってから河身が浅くなり、遷徙が定まらず、曹・單・豐・沛はつねに水没に苦しんでいた。上疏して故河の回復を請うたが、給事中の王道成が、いま崔鎮と高堰を築いているところで役は並び行いがたいと言い、河南の撫按もまた三つの困難を陳べたので、中止となった。
張居正の家族の擁護と失脚
- 南京兵部尚書に遷り、萬厯十一年(1583年)正月、召されて刑部に改められた。
- 潘季馴が再起したのは張居正の引き立てによる。張居正が没して家族がことごとく幽閉され、子の敬修が縊死した。潘季馴は、居正の母は八十を越えており朝夕の命も測りがたいとして、特恩を降して赦し放つことを乞うた。また居正の獄の追及が急すぎるとして、居正の家族で獄死した者がすでに数十人にのぼると公言した。
- これに先立ち、御史の李植・江東之らは大臣の申時行・楊巍と互いに攻撃しあっていた。潘季馴が力めて申時行・楊巍の側に立ち、言う者を痛烈に非難したので、言う者は憤り、李植はついに潘季馴が張居正を庇っていると弾劾し、職を落とされて民となった。
- 萬厯十三年(1585年)、御史の李棟が上疏して訴えた。趣旨は、隆慶年間に河が崔鎮で決壊して運道が塞がっていたのが、数年来、民居も定まり河水も安らかに流れており、みなこれは潘尚書の功だと言っている。昔、先臣の宋禮が會通河を治めた恩恵に今も頼っている。陛下は督臣の萬恭の請いを容れて宋禮に諡と廕を与えられた。いま潘季馴の功は宋禮に劣らないのに、生きている身で編戸の民と同列に置くのは、諸臣が事にあたる心を挫き、朝廷が功に報いる典を失うものではないか、というものであった。
- 御史の董子行もまた、潘季馴は罪が軽く責めが重いと言った。詔でいずれも俸を奪われた。
- その後も推薦する者が絶えず、萬厯十六年(1588年)、給事中の梅國樓が改めて推薦し、そこで潘季馴を右都御史として河道の總督に起用した。呉桂芳の後は河と漕をともに總理させていたが、ここで再び専任の官を置いたのである。
晩年と泗州の水害
- 翌年、黄水が急増して夏鎮へ流れ込み、田地や家屋を壊して住民が多く溺死した。潘季馴はまたこれを築いて塞いだ。萬厯十九年(1591年)冬、太子太保・工部尚書兼右都御史を加えられた。
- 潘季馴は都合四たび治河の命を受け、前後二十七年にわたった。地形の険易を知り尽くし、堤を増築し防備を設け、官を置き閘を建て、木石や樁埽に至るまで細大もらさず統理した。労を積んで病を得、三たび疏を上げて休を乞うたが許されなかった。
- 萬厯二十年(1592年)、泗州で大水があり、城中の水は三尺に及び、患いは祖陵にまで及んだ。議者には、傅寕湖を開いて六合から江へ入れようとする者、周家橋および高郵・寳應の諸湖を浚おうとする者、壽州の瓦埠河を開いて淮水の上流を分けようとする者、張福堤を弛めて淮口へ落とそうとする者があった。潘季馴は、祖陵の王気は軽々しく漏らすべきでないと述べたが、巡撫の周寀・陳于陛、巡按の高舉は、周家橋は祖陵の後ろ百里にあるので浚ってよいと言い、議は合わなかった。
- 都給事中の楊其休が潘季馴の辞去を認めるよう請うた。帰って三年で没した。享年七十五。