明史卷二百二十三 列傳第一百十一 朱衡
字は士南、萬安の人である朱衡。嘉靖十一年の進士で、山東巡撫を経て嘉靖四十四年の黄河決壊に際し工部尚書兼右副都御史として河漕を總理した。潘季馴の旧渠浚渫論を斥け、盛應期のかつて開いた新河の旧址に拠って全長百九十四里の新河を完成させ、境山から南陽までの漕運を通した。のち支河四本を開いて水勢を分け、閘官五名と人夫六千余を削減した。工部にあっては織造・緞の増造・鰲山燈・殿閣造営など内府の濫費をそのつど執奏して止めさせた。強直で屈しない性質から張居正に好かれず、萬厯二年に弾劾を受けて帰郷し、七十三で没した。附伝に翁大立がある。
年表(12件)
- 嘉靖十一年1532年進士に及第し、尤溪・婺源の知縣として治績を挙げる
- 嘉靖三十九年1560年右副都御史に進んで山東を巡撫し、登州・萊州の商禁を論ずる
- 嘉靖四十四年1565年南京刑部尚書に進み、秋の沛縣決壊を受けて河漕を總理する
- 隆慶元年1567年太子少保を加えられ、新河の決壊に支河四本を開いて水勢を殺ぐ
- 隆慶六年1572年正月に左副都御史を兼ねて河道を經理し、穆宗の崩御を経て還朝する
- 萬厯二年1574年林景暘の弾劾を受けて辞職し、太子太保を加えられ駅伝で帰郷する
- 嘉靖十七年1538年翁大立が進士に及第する
- 嘉靖三十八年1559年翁大立が右副都御史として應天・蘇州の諸府を巡撫する
- 隆慶二年1568年翁大立が河道の督察を命じられ、鴻溝への浚渠などを請う
- 隆慶三年1569年七月に河が沛縣で大決壊し、翁大立が十二図と五患を描いて献ずる
- 隆慶四年1570年六月、鴻溝・境山の諸工事と淮の浚渫が順次完成する
- 萬厯六年1578年翁大立が南京兵部尚書から致仕して帰る
出自と山東巡撫
- 朱衡は字を士南といい、萬安の人。嘉靖十一年(1532年)の進士。尤溪・婺源を知して治績の評があり、刑部主事に遷り郎中を歴任した。出て福建提學副使となり、累官して山東布政使となった。
- 嘉靖三十九年(1560年)、右副都御史に進んでその地を巡撫した。奏して、近ごろ遼左が飢饉を告げたので暫く登州・萊州の商禁を弛めて粟を回して救ったが、狡猾な商人がそれに乗じて他の貨物を積んで往来販売し、あわせて青州以西の路が開かれて、海島の亡命者がひそかに結託している、これを禁ずるのがよい、と述べた。従われた。
- 召されて工部右侍郎となり、嘉靖四十四年(1565年)に南京刑部尚書に進んだ。
新河の完成
- その秋、黄河が沛縣の飛雲橋で決壊し、東へ昭陽湖に注いで運道が百余里にわたって埋まった。朱衡は工部尚書兼右副都御史に改められ、河漕を總理した。
- 朱衡は決壊口へ馳せつけたが、旧渠はすでに陸地となっていた。故都御史の盛應期が開いた新河は、南陽以南から東は夏村、さらに東南の留城に至るまで旧址が残っており、その地は高く、河の決壊した水は昭陽湖で止まってそれ以上東へは及ばないので、漕運を通せると見た。そこで新河を開くことに議を定め、呂孟湖に堤を築いて潰決に備えた。
- 河道都御史の潘季馴は旧渠を浚う方が便だとして議が合わなかったが、朱衡はいよいよ堅く主張し、鮎魚・薛河・沙河の諸水を新渠に引き入れ、馬家橋の堤を築いて飛雲橋の決壊口を遏め、みずから工事を督した。曹濮副使の柴淶を弾劾して罷めさせ、命に従わない吏卒を厳しく縛したので、世評の非難が起こった。
- 翌年、給事中の鄭欽が、朱衡は民を虐げて功をあさっていると弾劾し、詔で給事中の何起鳴を派遣して調査させた。工事は完成間近であった。
- 秋になって河が馬家橋で決壊すると、議者は紛然として功は成らないと言い、何起鳴もはじめは朱衡の議を主としていたのに説を変え、給事中の王元春・御史の王襄とともに章を交わして朱衡の罷免を請うた。しかし新河がすでに完成したのでそれも止んだ。
- 河の長さは百九十四里。漕船は境山から入って南陽まで通行できるようになった。まもなく潘季馴が喪により去ったので、詔で朱衡がその事を兼理した。
支河の開削と閘官の削減
- 隆慶元年(1567年)、太子少保を加えられた。山からの水が急に溢れて新河が決壊し、漕船数百が壊れた。給事中の呉時來は、新河は東兖以南、費・嶧・鄒・滕の水を受けており、一本の堤で群流を防ぐ以上、潰れないはずがない、分けて勢いを殺ぐべきだ、と言った。朱衡はそこで支河四本を開いてその水を赤山湖へ落とした。
- 翌年秋、召還されて兵部へ戻った。さらに翌年、朱衡は上疏した。趣旨は次のとおり。
- 先臣の宋禮が旧渠を浚治したとき水平を測量したところ、濟寜の平地は徐州の境山の頂と高さが等しく、北が高く南が低くて、三十丈の懸流であった。それゆえ魯橋閘以南は少し開けばたちまち涸れ、舟行は半月かかってようやく東兖に達し、民は閘を増やし浅瀬をさらう労役に百六十年苦しんできた。
- 先ごろ新渠を改鑿して黄河の流れを遠く避け、低い所を捨てて高い所に就いたので、地形は平坦で諸閘を開閉する煩わしさがなく、舟行は日に百余里に及ぶ。人夫の役はすでに実質を失っており、河道都御史の翁大立が裁革を奏請しているのは聴くべきである。
- そこで閘官五名と人夫六千余を減らし、その雇い賃を渠の修繕費に充てた。
- 嘉靖四十五年ののち、隆慶六年(1572年)秋、河が睢寧で決壊したので潘季馴を起用して總理させた。翌年冬、河道を閲視した給事中の雒遵が潘季馴を弾劾して罷めさせ、廷臣で朱衡の右に出る者はいないと述べた。隆慶六年(1572年)正月、詔により左副都御史を兼ねて河道を經理した。穆宗が崩じ、大學士の高拱が山陵の工事を理由に朱衡を召すよう請い、折しも邳州の工事も完了したので、朱衡は還朝した。
工部尚書としての節約と諫争
- 朱衡は前後して工部にあって工作を禁止し、無駄な費えを抑え、節約するところがきわめて多かった。
- 穆宗の時、内府の監局が工料の徴発を加え、濫用が甚だしかったが、朱衡はそのつど執って奏した。まもなく南京織造太監の李佑に袍緞千八百余匹を急ぎ調えるよう詔が下ると、朱衡は言官の孫枝・姚繼可・嚴用和・駱問禮が相次いで諫めたのを受けて、重ねて疏を上げてこれに従うよう請い、帝は太監を厳しく責めた。
- 崔敏が南京に緞十余萬匹の増造を伝令したときは、朱衡が新造の停止を議し、ただ歳額だけを課すこととして、新造の三分の二を減らすことができた。鰲山燈の製作を命じられたときは費用が三萬余兩と見積もられ、また長信門に光泰殿と瑞祥閣を建てるよう命じられたが、朱衡はいずれも奏して止めさせた。
- 神宗が即位すると、まず織造の停止が命じられたが、内臣はすぐには詔を奉ぜず、しかも織染所の顔料の増加を請うた。朱衡が奏して争い、いずれも聴き入れられた。皇太后が帑金を出して涿州の碧霞元君廟を修めるよう伝諭したときも、朱衡は重ねて争い、報告のみで済まされた。
- 朱衡は強直な性で、事に臨んで屈しなかったので、張居正に好かれなかった。萬厯二年(1574年)、給事中の林景暘が朱衡の剛愎を弾劾すると、朱衡は重ねて疏を上げて休を乞い、詔で太子太保を加えられ駅伝で帰郷した。
- その年の夏、大雨で昭陵の祾恩殿が壊れ、工事監督の罪を追及されて宫保を奪われた。没したとき七十三歳。子の維京には別に伝がある。
翁大立(附伝)――蘇州の獄囚脱走事件
- 翁大立は餘姚の人。嘉靖十七年(1538年)の進士。累官して山東左布政使となり、嘉靖三十八年(1559年)に右副都御史として應天・蘇州の諸府を巡撫した。
- 蘇州は倭の警報を受けて壮士を募っていたが、後に兵が解散されると行き場を失い、群れ集まって剽奪した。大立が首謀者の名を突き止めて厳しく捕えようとすると、悪少年らは懼れて、夜に縣と衞の獄を襲い、囚人を解き放って引き連れ、都御史の行署を攻めた。大立は妻子を率いて逃れ、知府の王道行が兵を督して力めて拒んだので、賊は葑門を斬り開いて太湖へ逃げ込み盗賊となった。大立は罪を負ったまま賊を捕えるよう命じられ、まもなく弾劾されて罷免された。
- 久しくして、もとの官で起用され山東を巡撫することとなったが、喪に遭って赴任しなかった。
翁大立(附伝)――河道の経営と十二図の献上
- 隆慶二年(1568年)、河道の督察を命じられた。朱衡が新河を開いて漕渠が便利になっていたので、大立はその利五つを称え、あわせて回回墓を浚って鴻溝に達し、昭陽湖の水を鴻溝に沿わせて留城から出し、湖の下の肥沃な田千頃を灌漑することを請うた。まもなく邵家嶺を鑿ち、水を地浜溝から境山へ出して漕河に入れることも請うた。帝はいずれも従った。
- 隆慶三年(1569年)七月、河が沛縣で大決壊し、漕船が阻まれて進めなくなった。帝は大立の請いに従って大々的に賑貸を行った。大立はさらに、後から着く漕船の粟を徐州倉に貯え、平価で売り出すことを請い、詔で三萬石を民に賜わることを許された。
- 大立は、下民が水に沈み、里巷が愁い困る有様を帝が知りようがないと考え、図十二枚を描いて献じ、憂うべき事はこれにとどまらないとして五つの憂いを挙げた。
- 一。東南は財賦の地なのに江海が氾濫して米一粒も実らず、京師の備蓄が危うい。
- 二。辺関千里がことごとく洪水に遭い、墩堡が傾き崩れて、何を頼りに守るのか。
- 三。畿輔・山東・河南は長雨が続いて城郭が整わず、冦盗への備えがない。
- 四。江海の間で颶風が浪を起こし、舟艦と戰卒がことごとく波に流されて、海防が危うい。
- 五。淮浙の塩場は鹹泥がすべて水没し、竈戸は流亡し商賈も来ず、国の税収が危うい。
- そして、五患と十二図を公卿に下して広く議させ、速やかに救済の策を求めるよう望んだ。帝は図を留めて閲覧に備え、その奏を担当官に下した。
- このとき黄河がすでに決壊したうえ淮水も増水し、清河縣から通濟閘を経て淮安城の西まで三十余里が埋まり、方信の二壩を決して海へ出て、平地の水深は一丈余りとなった。寳應湖の堤はあちこちで崩れ、山東の沂州・莒州・郯城でも水が溢れ、沂河・直河から邳州へ出て、人民の多くが溺死した。
- 大立は奔走して経営し、隆慶四年(1570年)六月に至って鴻溝・境山の諸工事および淮の流れの浚渫が順次完成した。帝は喜んで差をつけて賜与した。当時、大立はすでに工部右侍郎に昇っており、まもなく兵部に改められて左侍郎となった。
- 後任の陳大賓がまだ着任しないうちに、山東の沙河・薛河・汶水・泗水の諸水が急に増水して仲家淺の諸処が決壊し、黄河もまた急に至って茶城が再び埋まった。続いて淮も泰山廟から七里溝まで十余里が埋まった。翌年、給事中の宋良佐に弾劾されて罷免された。
翁大立(附伝)――荷花兒の冤罪事件と晩年
- 萬厯二年(1574年)、南京刑部右侍郎に起用され、そのまま吏部へ改められ、翌年、入って刑部右侍郎となり、再び遷って南京兵部尚書となった。萬厯六年(1578年)、致仕して帰った。
- これに先立つ隆慶末、錦衣指揮の周世臣という者がいた。外戚の慶雲侯の裔で、家は貧しく妻もなく、ただ婢の荷花兒とともに住んでいた。盗賊がその家に入って世臣を殺して去った。把總の張國維が盗賊を捕えに入ると、荷花兒と僕の王奎だけがいたので、二人が姦通して主を殺したのだと断じ、裁きが成った。
- 刑部郎中の潘志伊はこれを疑い、久しく決しなかった。大立が侍郎として部の事を署理するに及び、荷花兒が主を殺したことに憤って志伊に速やかな判決を促した。志伊はなお疑ったので、郎中の王三錫と徐一忠に委ねて共に裁かせたが、結局くつがえるところなく極刑に処された。
- 数年を過ぎて真犯人が捕まり、都の人々は競って荷花兒の冤罪を言い、それが宫中に伝わった。帝は大いに怒り、大立らを重く処罰しようとし、折しも給事中の周良寅・蕭彦が重ねて弾劾したので、大立の職を追奪し、徐一忠・王三錫を外へ調べた。潘志伊は当時すでに九江府を知していたが、やはり陳州知に貶された。
- 潘志伊は吳江の人。進士。廣西右參政で終わった。歴任した官で評判があった。