出自と兵部での経歴
- 萬恭は字を肅卿といい、南昌の人。嘉靖二十三年(1544年)の進士。南京文選主事を授けられ、考功郎中を歴任した。壽王の喪が南京を通ったとき、中官が王妃に朝させようとしたが、萬恭は厲声で、礼では后にも朝さないのに、まして妃においてはどうか、と言い、そこで取りやめとなった。そのまま光禄少卿に遷り、入って大理に改められた。
- 嘉靖四十二年(1563年)、賊が通州に迫った。帝はちょうど兵事を急いでおり、兵部右侍郎の蔡汝楠に戎政を協理させ、任に堪えない侍郎の喻時を南京へ調べ、鄭曉・楊順・葛縉のいずれかで代えようとして、手詔で徐階に問うた。徐階は、鄭曉は文士であり、楊順・葛縉は人物がよくないとして、吏部に推挙させるよう請うた。帝はそこで尚書の嚴訥に、格を越えて人を求めるよう諭した。こうして湖廣參政の李燧が喻時に代わり、萬恭が蔡汝楠に代わることとなった。
- 萬恭は選兵の議を列挙して上呈し、將を練り、兵車と火器を用いることなどを述べ、いずれも許可された。
- 翌年、李燧が罷められ、衆は萬恭を推そうとしたが、萬恭は病と称し、趙炳然が用いられてから出仕した。そこで給事中の胡應嘉が萬恭の奸欺を弾劾した。萬恭は奏して弁明し、部議では萬恭を転出させるとしたが、詔で不問とされた。萬恭は落ち着かず、困難な辺境で身を役立てたいと強く請うた。
山西巡撫
- そこで僉都御史を兼ねて山西を巡撫するよう命じられた。着任したばかりのとき賊が龍鬚墩を犯したので、萬恭は伏兵を用いて撃退した。まもなく敵五萬騎が朔州川に至り、萬恭は老高墓で戦い、車を連ねて陣とし火器を放った。賊はやや退いたが、突然に風が起こって火が逆に車を焼き、賊が再び大挙して来たので、諸將は決死の戦いを行い、賊はようやく去った。事が聞こえて銀と幣を賜わった。
- 巡撫にはもともと旗牌がなかったが、萬恭は請うてこれを得た。黄河沿いの州縣は河套の賊が東へ掠めるのを患い、毎年氷を割って防いでいた。萬恭は四十里の牆を築き、人に耕作と水車の法を教えたので、民は大いに利を得た。
- 満一年で母の喪により帰郷した。隆慶初、給事中の岑用賓らが拾遺で萬恭に及んだが、吏部尚書の楊博はなお辺方で用いるべきだと議した。喪が明けると萬恭はついに出仕しなかった。
治河と晩年
- 隆慶六年(1572年)春、給事中の劉伯燮が萬恭の異才を推薦した。折しも河が邳州で決壊して運道が大きく阻まれ、すでに尚書の朱衡を派遣して經理させていたが、あわせて萬恭にもとの官で河道を總理させた。
- 萬恭は朱衡とともに長堤を築いた。北は磨臍溝から邳州の直河まで、南は離林から宿遷の小河口まで、それぞれ三百七十里に及び、帑金三萬を費やして六十日で完成した。
- 高郵・寳應の諸河は夏秋に氾濫し、毎年、堤を増すことが議されたが水はいよいよ増した。萬恭は堤に沿って平水閘二十余を建て、時に応じて水を落とし蓄えることとし、もっぱら湖を浚わせて堤を増やさなくしたので、河はついに患いがなくなった。
- 萬恭は強毅で機敏、当時、才臣と称された。治水三年、言う者にその不職を弾劾され、ついに罷めて帰った。家に居ること二十年近くで没した。孫の萬燝には別に伝がある。