篇首の立伝者一覧
- 盛應期
- 朱衡(割注に附伝として翁大立・潘志伊)
- 潘季馴
- 萬恭
- 呉桂芳(割注に附伝として傅希摯)
- 王宗沐(割注に附伝として子の士崧・士琦・士昌、從子の士性)
- 劉東星(割注に附伝として胡瓚)
- 徐貞明(割注に附伝として伍袁萃)
出自と宦官との衝突
- 盛應期は字を思徴といい、呉江の人。𢎞治六年(1493年)の進士。都水主事を授けられ、出て濟寜の諸閘を管轄した。太監の李廣の家人が私塩を売りに濟へ来たが、應期を畏れて塩を水中に投げ捨てて去った。
- たまたま南京の進貢の内官が、應期が薦新の船を阻んだと誣告し、李廣が内側から仕組んだので、應期と主事の范璋が逮捕され詔獄に下された。范璋は衞河を管掌して、やはり中官に逆らった者である。裁きが下って雲南驛丞に貶され、のち禄豐知縣に遷った。
雲南・四川での経歴
- 正徳初、雲南僉事を歴任した。武定土知府の鳳英が死に、妻が府の事を代行し、子の朝鳴が賊をなした。應期が単身で車を駆ってその境に入ると、母子は恐れて侵した地を返した。應期は鳯氏がいずれ乱を起こすと見て、その秩を降し官を置いて制することを奏したが、実施されなかった。のち鳯氏はやはり叛いた。
- 御史の張璞、副使の晁必登とともに鎮守太監の梁裕を抑えた。梁裕が三人を弾劾し、いずれも逮捕されて詔獄に下され、張璞はついに拷問により死んだ。乾清宫の火災に際して應期は復職を得た。
- 正徳四年(1509年)、陜西右布政使に至り、右副都御史に抜擢されて四川を巡撫した。天全六畨招討使の高文林を討ち平らげた。折しも泉江の僰蠻である普法惡が乱を起こし、富順の奸民の謝文禮・文義がこれに付いた。法惡が死に、指揮の何卿らが前後して文禮・文義を討ち誅した。應期は銀と幣を賜わり、喪により帰郷した。
江西巡撫と両広総督
- 嘉靖二年(1523年)、もとの官で起用され江西を巡撫した。宸濠の乱の後で傷が癒えていなかったので、奏して雑調の緡錢数十萬を免じ、南京へ転輸する米四十七萬・銀二十萬を留めて饑民に食わせることを請うた。また諸府に穀を積んで荒年に備えさせ、百余萬に達した。
- まもなく兵部右侍郎に進み、兩廣の軍務を總督した。出発にあたって積穀の数を報告したので、帝は陳洪謨を後任としつつ應期を褒賞した。のち陳洪謨が積穀をさらに増やしたときもまた賞された。
- 應期は廣に至り、撫寕侯の朱麒とともに參將の李璋らを督して思恩の土目である劉召を討ち平らげ、重ねて銀と幣を賜わった。
- 朝議で岑猛への大征が図られると、應期は方略七事を条陳し、廣の兵は疲弱で用いられないと述べた。朱麒らは憤り、折しも御史の許中が應期の暴虐を弾劾したので、朱麒らはこれに乗じて流言を広めた。御史の鄭洛書がさらに、應期が賄賂で権貴と結んでいると弾劾した。應期はすでに工部侍郎に遷っていたが、病と称して帰郷した。
新河の開削と罷免
- 嘉靖六年(1527年)、黄河の水が溢れて漕渠に入り、沛縣の北の廟道口が数十里にわたって埋まり、糧船が阻まれた。侍郎の章拯は治められず、尚書の胡世寕、詹事の霍韜、僉事の江良材は、昭陽湖の東に別に漕渠を開いて長久の計とするよう請うた。議が定まらないうちに、御史の呉仲の言により章拯を召還し、應期をその家で右都御史に拝して赴かせた。
- 應期は、昭陽湖の東北で江家口から入り南は留城口へ出る百四十余里を開鑿すれば、旧河を浚うより力が省け利は永いと議した。人夫六萬五千、銀二十萬兩、期限を六か月と定めた。
- 工事が成らないうちに旱災があって修省が行われ、言う者の多くは開河は策でないと述べたので、帝はにわかに役を罷めるよう命じた。應期は一か月の延長を請うて完成させたいと願ったが聴かれなかった。
- はじめ應期は郎中の柯維熊に支河の浚渫を分担させることを請い、柯維熊は新河の議を力めて賛成していたが、この時になって不便だと言い出した。應期が上章して自ら弁じると、帝は怒り、詔で柯維熊ともども職を奪った。
- 胡世寕は、新河の議は臣が唱えたもので、應期は六か月を期して四月で八九分まで進んでいた。工程が急なため怨みの声が起こったのであり、柯維熊は反覆変詐して大臣を陥れ国事を誤った。古来、国家が大事を仕損じれば必ず首唱者を責めるのだから、臣も同じく罷めてほしい、と述べた。帝は許さなかった。
- のち赦により官を復し、致仕して没した。應期が罷められて三十年の後、朱衡が新河の遺跡をたどってこれを完成させ、運道はその利を蒙った。