明史卷二百二十二 列傳第一百十 淩雲翼

出自と両広提督

  • 凌雲翼は字を洋山といい、太倉州の人。嘉靖二十六年(1547年)の進士。南京工部主事を授けられ、隆慶年間に累進して右僉都御史となり鄖陽を撫治した。衞所の兵が消耗する弊について六事を論じ、多くが実施された。
  • 萬厯元年(1573年)、右副都御史に進んで江西を巡撫し、三たび遷って兵部左侍郎兼右僉都御史となり、兩廣の軍務を提督して殷正茂に代わった。
  • 当時、賊盗はほぼ平らぎ、ただ林鳯だけが逃れていた。林鳯ははじめ錢澳に屯して招撫を求めたが、殷正茂が許さなかったので、彭湖から東番の魍港へ奔り、福建總兵官の胡守仁に破られた。その年の冬、柘林・靖海・碣石を犯し、さらに福建を犯した。胡守仁が淡水洋まで追撃してその船二十を沈め、賊は利を失って再び潮州へ入った。參政の金淛がその党の馬志善・李成らを説いて降らせ、林鳯は夜に逃げた。翌秋、把總の王望高が吕宋の番兵を用いて討ち平らげた。

羅旁の征討と晩年

  • まもなく進んで羅旁を征した。羅旁は徳慶州の上下の江の境、東西両山の間にあり、延々七百里に及ぶ。成化年間に韓雍が経略して西山はかなり安定したが、東山の猺だけは深い竹藪に拠って剽掠し、担当官は毎年兵を出して戍守していた。殷正茂が大征を建議したところで転出したので、凌雲翼が大いに兵を集め、兩廣の總兵である張元勲・李錫にこれを率いさせた。
  • 四か月で五百六十の巣を克ち、俘斬と招降は四萬二千八百余人。岑溪の六十三山、七山・那留・連城の諸処、隣境の猺・獞はみな懼れ、賊首の潘積善は招撫を求めた。凌雲翼は奏して官を設け戍らせた。功を論じて右都御史兼兵部侍郎を加えられ、飛魚服を賜わった。瀧水縣を羅定州に改め、監司と參將を置き、積年の患いはたちどころに息んだ。
  • 萬厯六年(1578年)夏、巡撫の吴文華とともに河池・咘咳・北三の諸猺を討ち平らげ、また廣東の大廟の諸山の賊を捕斬し、嶺表はことごとく平定された。
  • 召されて南京工部尚書となり、そのまま兵部に改められ、兵部尚書兼右副都御史として漕運を總督し淮揚を巡撫した。河臣の潘季馴が召し入れられると、河道の督察も兼ねることとなり、太子少保を加えられた。召されて戎政尚書となったが、病により帰郷した。家居して驕縦であったため、給事中・御史が連署して弾劾し、詔で官を奪われ、のち没した。
  • 凌雲翼は幹済の才があり、羅旁の役では殷正茂を継いで成功したが、事を起こすことを好み殺戮を好んだので、当時の人に譏られた。

史論

  • 贊に曰く。譚綸・王崇古らは険しい辺疆の任を受け、兵備に練達しており、余子俊・秦紘と前後して並び称してよい。その時代を考えるに、張居正が国政を執って軍謀と辺境の細事に心を用い、書簡を往復して機要を見通し、任を委ねて成果を責め、思うところを展開させたので、それぞれがその才を尽くし事は成就した。この点を見れば、張居正の功もまた消し去ることはできない。