出自と古田の平定
- 殷正茂は字を養實といい、歙の人。嘉靖二十六年(1547年)の進士。行人から兵科給事中に選ばれ、南京刑部侍郎の沈應龍を弾劾して罷めさせた。廣西・雲南・湖廣の兵備副使を厯任し、江西按察使に遷った。
- 隆慶初、古田の獞である韋銀豹と黄朝猛が叛いた。銀豹の父の朝威は𢎞治年間に三厄で官兵を破り、副總兵の馬俊、參議の馬鉉を殺した。正徳年間には洛容を陥れたこともある。嘉靖時には銀豹と朝猛が參政の黎民衷を襲って殺した。提督侍郎の吴桂芳が典史の廖元を遣わして招降し、廖元を主簿に遷して守らせたが、銀豹はたびたび叛服を繰り返した。
- 隆慶三年(1569年)冬、廷議で大規模な征討が決まり、殷正茂が右僉都御史に抜擢されて廣西を巡撫した。殷正茂は提督の李遷とともに土兵・漢兵十四萬を調え、總兵の俞大猷にこれを率いさせた。まず牛河・三厄の険を奪い、諸軍は連続して東山・鳯凰寨を克ち、潮水へ追い詰めた。廖元が獞人を誘って朝猛を斬った。銀豹は窮し、配下にひそかに自分に似た者を斬らせて献じさせた。
- 捷報が届き、兵部右侍郎に進んだが巡撫はもとのまま。古田を永寧州に改め、副使と參將を置いて鎮守させた。まもなく僉事の金柱が銀豹を捕えたので、殷正茂は自ら弾劾を求めたが、詔で銀豹は京師で磔にされ、殷正茂は不問に付された。
両広提督としての盗賊平定
- まもなく李遷に代わって兩廣の軍務を提督した。当時、群盗として惠州の藍一清・賴元爵、潮州の林道乾・林鳯・諸良寳、瓊州の李茂が至るところに屯結し、廣中は日々警報を告げ、倭もまたたびたび害をなしていた。
- 殷正茂は守巡官が地を分けて守ることを議し、海辺の謫戍の民を雲南・四川・湖廣へ移して倭の嚮導を絶った。そして總兵官の張元勲、參政の江一麟らに命じて前後に倭千余を殺させ、順次に諸盗をことごとく平らげた。廣西巡撫の郭應聘もまた懷逺・洛容の猺を平定したと奏した。詳細は張元勲・李錫の伝にある。
- 殷正茂は功により累進して兵部尚書兼右副都御史を加えられた。倭が再び銅鼓・雙魚を陥れると張元勲が大破し、儒峒が電白を犯すと殷正茂が千余人を討殺し、嶺表はおおむね平定された。
中央での経歴と晩年
- 萬厯三年(1575年)、召されて南京户部尚書となり、凌雲翼が代わった。翌年、北の户部に改められ、疏で節用を請い、また珠寳の採買を諫めて止めさせた。
- しかし張居正が、殷正茂の贈った鵞罽を慈寧太后に献じて座褥としたことがあり、李幼孜が寵を争って言官の詹沂らをそそのかして弾劾させたので、たびたび病と称し、萬厯六年(1578年)に致仕して帰った。久しくして南京刑部尚書に起用された。
- 張居正が没した翌年、御史の張應詔が、殷正茂は金の盤二つに高さ三尺ばかりの珊瑚を植えて張居正に賄い、さらに金珠・翡翠・象牙を馮保や張居正の家人の游七に贈った、と言った。殷正茂は疏で弁明し、休暇を請うて許された。萬厯二十年(1592年)に没した。
- 殷正茂は廣にあったとき法を厳しく執り、道將以下は謹んで奉行した。しかし性は貪で、毎年、属吏から受ける金は万を数えた。はじめ古田を征するとき、大學士の高拱は、自分は百萬金を殷正茂に捨てる、着服する者が半ばあっても事はただちに成る、と言った。当時、高拱は人をよく用いると評された。
李遷(附伝)
- 李遷は字を子安といい、新建の人。嘉靖二十年(1541年)の進士。隆慶四年(1570年)に南京兵部右侍郎となり、左侍郎として兩廣を總督した。給事中の光懋が、兩廣はもと提督を置いて事権が一元化していたのに、いま二人の巡撫が互いに牽制して不便だと言ったので、李遷を提督兼廣東巡撫に改め、特に殷正茂を廣西巡撫に命じた。以後これが定制となった。
- 銀豹平定の功により右都御史を加えられた。まもなく惠州・潮州の山賊を討ち、俘斬千二百余級。召されて刑部尚書となり、病と称して帰り、没した。恭介と諡された。李遷は中外に出入りすること三十年、一銭もみだりに取らなかった。七十近くで母が亡くなると廬墓した。