出自と初期の経歴
- 張佳允は字を肖甫といい、銅梁の人。嘉靖二十九年(1550年)の進士。滑縣を知した。大盗の高章という者が緹騎を装って官署に押し入り、張佳允を脅して帑金を奪おうとした。張佳允は顔色も変えず、偽って証文を書いて金を借りることにし、そこにすべて游徼の名を署名させ、召し入れてただちに賊を捕えた。これによって名を知られた。
- 户部主事に抜擢され、職方に移り、禮部郎中に遷ったが、風霾の考察により陳州同知に貶された。累遷して按察使となった。
- 隆慶五年(1571年)冬、右僉都御史に抜擢されて應天十府を巡撫した。安慶の兵変で審理にあたったが、供述が合わないとして南京鴻臚卿に調べられ、そのまま光祿に遷り、右副都御史に進んで保定を巡撫した。道中で喪を聞いて帰郷した。
- 萬厯七年(1579年)、もとの官で起用され陜西を巡撫することになったが、赴任前に宣府へ改められた。当時、青巴圖はすでに服していたが、その弟の莽逹阿はなお桀驁で、配下の巴林が塞外の史・車の二部を掠めた。總兵官の麻錦がこれを捕えると、張佳允は麻錦に巴林を縛らせ、斬ろうとしたところへ自身が馳せて赦した。巴林は叩頭して辺を犯さないと誓った。のちに總督の鄭洛とともに計って莽逹阿を服させた。入って兵部右侍郎となった。
杭州の兵変・民変の鎮定
- 萬厯十年(1582年)春、浙江巡撫の吴善言が詔を奉じて月餉を減らすと、東西二營の兵である馬文英・劉廷用らが徒党を組んで大いに騒ぎ、吴善言を縛って殴った。張居正は張佳允が有能なので、右僉都御史を兼ねさせて吴善言に代えた。
- 張佳允が境に入ったばかりのとき、杭州の民も保甲の実施のためにやはり乱を起こした。張佳允は訴え出た者に、乱兵と乱民は合流したかと問い、まだだと聞くと喜んで、急いで駆り立てれば二つに離しておける、と言った。
- 着任すると民の略奪はいよいよ甚だしくなった。張佳允は数人の兵卒を従えて、偽って民の苦しむところを問い、これを除くと令を下した。衆はますます勢いづき、夜には富家を掠め、火の光が天を照らした。
- 張佳允は遊擊の徐景星を召し、二營の兵に乱民を討って自ら罪を贖わせるよう諭した。百五十人を捕え、その三分の一を斬った。そのうえで偽って馬文英・劉廷用を召して冠帯を与え、ひそかに徐景星に属して七人を捕え、馬文英・劉廷用とともに斬った。二つの乱はことごとく鎮まった。帝は優詔で褒め称えた。
薊遼総督と晩年
- まもなく左侍郎として兵部へ戻り、功を録して右都御史を加えられた。ほどなく戎政尚書に拝され、まもなく右副都御史を兼ねて薊遼保定の軍務を總督した。李成梁が逞加努を撃ち斬った功により太子少保を加えられ、李成梁が瀋陽で土黙特を破ると太子太保に進み、召還されて部の事を理めた。労を叙して一品の誥を与えられた。
- 御史の許守恩が張佳允は運動して本兵の地位を得たと弾劾し、御史の徐元がまた重ねて弾劾したので、三たび疏を上げて病と称し帰郷した。二年を越えて没し、少保を贈られた。天啟初、襄憲と諡された。