明史卷二百二十二 列傳第一百十 張學顔

字は子愚、肥鄉の人である張學顔。嘉靖三十二年の進士で、高拱と魏學曽に見出されて隆慶五年に遼東を巡撫した。飢饉と敗戦で荒廃した遼鎮を賑恤・招民・買馬によって立て直し、李成梁とともに土黙特を卓山に破り、建州の王杲を款に就かせ、のち誅して寛佃に二百余里の地を拓いた。土黙特の封王要求は正論で退けた。戸部尚書としては『㑹計錄』を撰し勲戚の莊田や屯田を整理して萬厯十年ごろの富庶を支えたが、金花銀の増額を許した点は低く見られた。兵部尚書としては内操の危険を上疏して宦官の憎しみを買った。張居正の死後は其の党とみなされて弾劾され、致仕。萬厯二十六年に没し、少保を贈られた。

年表(7件)

出自と遼東巡撫への抜擢

  • 張學顔は字を子愚といい、肥鄉の人。生後九か月で母を失い、継母に孝をもって仕えたことで知られた。親の喪に廬墓したとき、白い雀が来て巣をかけたという。嘉靖三十二年(1553年)の進士。
  • 曲沃知縣から入って工科給事中となり、山西參議に遷ったが、總督の江東に弾劾されて官を去った。事情が明らかになって永平兵備副使に遷り、再び薊州へ調べられた。
  • 諳逹が順義王に封ぜられると、察圖們汗はその配下に、諳逹は奴隷なのに王に封ぜられた、自分は彼に及ばぬのか、と言い、三衞を擁して遼を窺い、王号を求めようとした。また海西・建州の諸部が日に強大となり、みな国を建てて汗を称し、大將の王治道や郎得功が戦死したので、遼の人々は大いに恐れた。
  • 隆慶五年(1571年)二月、遼東巡撫の李秋が免ぜられ、大學士の高拱が張學顔を用いようとしたが疑う者もあった。高拱は、張生は卓犖倜儻で人がまだ知らないだけだ、盤根錯節に置けば利器ぶりが見えるはずだ、と言った。侍郎の魏學曽が後から来ると、高拱は迎えて、遼の巡撫は誰がよいかと問うた。魏學曽はしばらく考えて、張學顔がよいと答えた。高拱は喜び、得たり、と言って、その名を上申した。
  • こうして右僉都御史に進み遼東を巡撫した。

遼東の再建

  • 遼鎮は辺の長さ二千余里、城砦百二十か所、三面が敵に隣し、官軍は七萬二千。月ごとに米一石を給し銀二錢五分に折算し、馬には冬春に飼料を給して月に銀一錢八分に折算した。豊作の年でも数日を支えるにも足りなかった。嘉靖戊午(嘉靖三十七年、1558年)の大飢饉以来、逃亡・死亡した士馬は三分の二に及び、前任の巡撫である王之誥・魏學曽が相次いで綏輯したが、全盛期の半ばも回復していなかった。そこへ旱魃が続き、餓死者が折り重なっていた。
  • 張學顔はまず賑恤を請い、軍伍を充実させ、流民を招き、甲仗を整え、戰馬を買い、賞罰を明らかにし、臆病な將数人を退けた。平陽堡を新設して両河を通じ、遊擊を正安堡へ移して鎮城を守らせ、戦守の備えはことごとく計画どおりに整った。
  • 大將の李成梁は深入りを好んだが、張學顔は収保を完策とした。敵が来ても失うものがなく、敵が退けば備えは初めのままで、公私の力は充実し、次第に旧に復した。
  • 十一月、李成梁とともに土黙特を卓山で破り、右副都御史に進んだ。翌春、土黙特が侵入を謀ったが、備えがあると聞いて止めた。
  • 奸民がみだりに海上へ出て三十六島に拠っていた。閲視侍郎の汪道昆は緝捕を議したが、張學顔は緝捕は得策でないとし、李成梁に海上で兵を按じさせて誅殺の構えを示す一方、別に使者を遣わして招諭し差役の免除を許した。半年たたぬうちに四千四百余口が帰り、積年の患いが消えた。

王杲の処置と寛佃への拓地

  • 秋、建州都督の王杲が降人の引き渡しを求めて得られず、撫順へ侵入して掠めた。守將の賈汝翼が詰責すると王杲はいっそう恨み、諸部と約して侵入した。副總兵の趙完は賈汝翼が争いの端を開いたと責めた。
  • 張學顔は奏して、賈汝翼は王杲の贈遺を退けその違抗を懲らしめたのであり、実に国威を伸ばしたものである。もしこれによって罷斥されるなら、辺將の進退を敵が主宰することになる。王杲に諭して俘虜と掠奪を返還させ、応じなければ兵を調えて討伐し、姑息にして禍を蓄えるべきでない、と述べた。趙完は懼れて金と貂を贈ったが、張學顔はこれを暴いた。詔で趙完は逮捕され、王杲への宣諭は張學顔の策のとおりとなった。諸部は大軍が出ると聞いてことごとく山谷へ逃げ隠れ、王杲は懼れて十二月、海西の王台に俘虜を送らせて款に就いた。張學顔はこれを機に撫した。
  • 遼陽の鎮の東二百余里に旧く孤山堡があり、巡按御史の張鐸が険山の五堡を増設したが、遼鎮との声援が接しなかった。都御史の王之誥は奏して険山參將を設け、六堡十二城を管轄して靉陽を分守させたが、その地が不毛なので寛佃へ移そうとし、財政が窮していて実現しなかった。
  • 萬厯初、李成梁が孤山堡を章嘉哈喇佃へ、険山の五堡を寛佃・長佃・雙墩・長嶺などへ移すことを議した。いずれも肥沃な地を占め要害を扼するものであったが、辺の人々は遠い労役を苦にして怨みの声を上げた。工事が始まったばかりのとき、王杲が再び辺を犯して遊擊の裴承祖を殺した。巡按御史はしきりに工事の中止を請うたが、張學顔は許さず、そうすれば弱みを示すことになる、と言った。
  • その日のうちに塞上を巡り、翁郭特の諸部を撫定して現地での交易を許し、ついに寛佃を築いて二百余里の地を拓いた。これにより撫順以北、清河以南はみな約束に従った。
  • 翌年冬、兵を発して王杲を誅し、大いに破って紅力寨まで追撃した。張居正は張學顔の功を總督の楊兆の上に置き、兵部侍郎を加えた。

土黙特の封王要求と兵部への帰任

  • 萬厯五年(1577年)夏、土黙特が大いに諸部を集めて錦州を犯し、封王を要求した。張學顔は奏して、敵が凌ごうとしているときにこれと通ずるのは畏れているということであり、和を制するのが向こうであれば和は必ず久しくない。しかも功がない者と功がある者を同じく封じ、順に背く者と順に効す者を同じく賞すれば、諸部に軽んじられ、諳逹にも笑われる。臣らは謹んで正論をもって退けたい、と述べた。折しも大雨となり、敵は引き退いた。
  • その冬、召されて戎政侍郎となり右都御史を加えられた。まだ交代しないうちに土黙特が泰寧の蘇爾巴噶と約して遼陽・瀋陽・開原を分かれて犯した。翌正月、劈山で敵を破り、その長の阿齊台ら五人を殺した。張學顔はそこで兵部へ戻った。

戸部尚書としての財政

  • 一年を越えて户部尚書に拝された。当時、張居正が国政を執っており、張學顔が計数に精しいとしてこれを深く重用した。
  • 張學顔は『㑹計錄』を撰して出納を勾稽し、また清文の条例を列挙して奏し、両京・山東・陜西の勲戚の莊田を整理し、額を超える分、脱漏、名義借りなどの弊を洗った。さらに天下に通行して官民の屯田・湖陂八十余萬頃を得、賠償に苦しむ民にはその賦をもって充てさせた。
  • 正徳・嘉靖の虚耗の後、萬厯十年(1582年)ごろまでが最も富庶と称されたのは、張學顔の力が与っている。
  • ただしこの時期は宫闈の用度が奢侈に流れ、徴求が多かった。張學顔は事に応じて諫言し、太倉銀十萬兩の支出を停め、雲南の黄金課一千兩を減らすことができたが、多くは争いきれなかった。金花銀は毎年二十萬兩を増やしてそのまま定額となり、人々はこの点で彼を低く見た。

兵部尚書と内操をめぐる上疏

  • 萬厯十一年(1583年)四月、兵部尚書に改められた。当時ちょうど内操が始められ、宦官二千人を選んで下男を混ぜて訓練し、太僕寺の馬三千を給しようとした。張學顔は馬を渡すことを拒み、また内操の中止を請うたが、いずれも聴かれなかった。
  • その年の秋、車駕が山陵から還ったとき、張學顔は上疏した。趣旨は次のとおり。
  • 皇上は聖母を奉じ、輦を扶けて先駆し、陵園を拝祀し、寿域を卜された。六軍の將士十余萬は部伍が整粛であったのに、内操の随駕軍士だけは進退がほしいままで、凉水河に至って喧嘩し規律なく、奔逸衝突して天顔を煩わせた。いま車駕は還ったのに、まだ解散していない。
  • 旧制を調べると、營軍が駕に随って郊祀するときは、はじめて内庫で甲を受け、事が終われば宫中に返す。ただ長随の内侍だけが弓矢を佩びることを許された。また律では、宿衞に属さない軍士が寸刃を持って宫殿門に入れば絞、皇城門に入れば辺衞に戍とする。祖宗が微を防ぎ乱を弭める意は深く遠い。
  • いま皇城内で甲を着け馬に乗り鋒刃を持つ者を、科道は糾せず、臣の部も検閲できない。しかも下男や僕隷を招き集めて禁苑に出入りさせている。万一よこしまな心を起こし、徒党を組んで乱を唱えれば、内で騒げば外臣は入れず、夜に騒げば外兵は知りえず、都城で白昼に騒げば天子の親兵だと称して、追い払っても散らず、捕えようとしても手が出せない。正徳年間の西城練兵の事は鑑とするに足る。
  • 疏が上がると宦官たちは切歯し、蜚語をもって中傷した。神宗はそれを察知して主使者を詰責したので、張學顔は難を免れたが、その言を用いることもできなかった。
  • 考満により太子少保を加えられ、雲南の岳鳯・罕䖍が平定されると太子太保に進んだ。

張居正の死後と致仕

  • 張居正が没すると朝論は大きく変わった。はじめ御史の劉臺が張居正を弾劾して罪を得たとき、張學顔はさらにその贓私を論じたことがあった。また御史の馮景隆が李成梁の功を飾ったと論じたとき、張學顔はしきりに李成梁の十大捷は偽りでないと称え、馮景隆は貶斥された。
  • 張學顔はもともと張居正に厚遇され、李成梁と長く事をともにしていたので、世論はみな張學顔を張居正・李成梁の党とみなした。御史の孫繼先・曽乾亨、給事中の黄道瞻が相次いで章を上げて張學顔を論じた。張學顔は疏で弁明して去ることを求め、あわせて黄道瞻の留任を請うたが聴かれなかった。
  • 翌年、順天府通判の周𢎞禴がまた張學顔が太監の張鯨と通じていると論じ、神宗はいずれも外へ黜けた。張學顔は八たび疏を上げて休を乞い、致仕を許されて去った。萬厯二十六年(1598年)、家で没し、少保を贈られた。