明史卷二百二十一 列傳第一百九 丁賓

出自と江防・冤罪の平反

  • 丁賓は字を禮原といい、嘉善の人。隆慶五年(1571年)の進士。句容知縣を授かり、召されて御史を授かった。
  • 大學士の張居正は賓の座主であったが、劉臺を贓罪で誣いようとして賓に遼東へ行って調べさせようとした。賓は力を尽くして辞し、居正の意に忤らって官を去った。
  • 萬厯十九年、推薦によって元の官で起用されたが、また憂で去った。南京大理丞として起用され、累進して南京右僉都御史となり操江を督した。
  • 江防が緩んでいたので、賓は将校を率いて一艘の舟で往来して見回り、守兵を増やして要害に戍らせたので、管内は安らかになった。
  • 南衞の世職はみな京師に赴いて襲爵を請うため、滞って官を得られずにいた。賓は南京で勘案して襲がせるよう請うた。
  • 妖民の劉天緒の左道の事が発覚したとき、兵部尚書の孫鑛は徹底的に処断しようとした。詔が法司に下されて訊鞫されたが、賓は刑部と大理の事を兼摂しており、力を尽くして冤を平反し、七人を死罪と論じただけで他はみな釈放させた。

工部尚書と賑済

  • 召されて工部左侍郎を拝し、まもなく南京工部尚書に抜擢された。上元から丹陽まで道路をすべて石に改め、旅人はこれを称えた。たびたび老齢を理由に罷免を乞い、光宗が立ってはじめて致仕を許された。
  • 賓は南都に官すること三十年、旱魃や大水のたびに賑貸を請い、時には家財を出して助けた。初め御史として家居していたころと、憂で帰ったときには、続けて三年の大飢饉に遭い、いずれも私財を投じて賑わした。天啓五年にはさらに粟三千石を捐じて貧民を賑わし、銀三千金で賦を納められぬ下戸の代わりとした。
  • 撫按がその前後の事を録して上申したとき、すでに太子少保を加えられていたので、太子太保に進め、その門を旌するよう詔された。高齢のため三度慰問を受けた。崇禎六年(1633年)に卒した。享年九十一。清惠と諡された。

史論

  • 賛にいう。南京の卿長は体面は尊いが官守に責任がないので、望を養う地とされ、資格が深く名声の重い者が置かれる。あるいは剛直でどこにも附かず執政に喜ばれぬ者を、これによって遠ざけるのである。
  • 袁洪愈ら諸人は、いずれも清廉剛直をもって閑職の地に居り、その才を用い尽くすことはできなかったが、それによって身を全うした。時流に媚び進もうと図る徒は、これを見て自らを戒めるがよい。