明史卷二百二十一 列傳第一百九 王樵

出自と汪直の処断

  • 王樵は字を明遠といい、金壇の人。父の臬は兵部主事で、武宗の南巡を諫めて杖たれ、山東副使で終わった。
  • 樵は嘉靖二十六年(1547年)の進士に挙げられ、行人を授かり、刑部員外郎を歴任した。『讀律私箋』を著し、きわめて精確であった。
  • 胡宗憲が計略で汪直を降し、信を示すために直を赦そうとしたとき、樵は「これは叛いた民であり、他の降を納れた例とは異なる」と述べ、直はついに誅された。山東僉事に遷り、病と称して帰った。

劉臺のために張居正に忤らう

  • 萬厯初、張居正が国政を握り、平素から樵を知っていたので浙江僉事に補して起用し、尚寶卿に抜擢した。
  • 劉臺が居正を弾劾し、居正が帰郷を乞うと、諸曹は奏して居正を留めた。樵だけは諫臣を全うして大臣を安んずるよう請い、おおよそ次のように述べた。古来、明主は言路を開こうとし、言が当を得なくてもなお寛容した。大臣は上の徳を広めようとし、自分を攻めた者でもなお推挙した。宋の文彦博が唐介に対したのがそれである。今、居正が留まって臺が罪を得たのは、仁宗が唐介を待った意に反するのではないか、と。
  • 居正は大いに怒り、南京鴻臚卿として出した。まもなく星変によって自陳し罷められた。
  • 家に居ること十余年、南京太僕少卿として起用されたときはすでに七十余歳であった。一年のうちに再び遷って大理卿となり、まもなく南京刑部右侍郎を拝した。誠意伯の劉世延が人殺しを主使したとき、樵は世延を任の剥奪に当てた。まもなくそのまま右都御史に抜擢されたが、給事中の盧大中がその老衰を弾劾したので、帝は致仕させた。
  • 樵は恬淡誠実で温和な長者であった。経学に深く、『易』『書』『春秋』にいずれも著述がある。卒して太子少保を贈られ、恭簡と諡された。

王肯堂――医学と著述(附伝)

  • 子の肯堂は字を宇泰といい、萬厯十七年(1589年)の進士に挙げられ、庶吉士に選ばれて檢討を授かった。
  • 倭が朝鮮を寇したとき、十議を上疏して陳べ、御史の銜を仮して海上で兵を練りたいと願ったが、疏は宮中に留められたので、病と称して帰った。京察で降調され、久しく家居した。
  • のち吏部侍郎の楊時喬の推薦で南京行人司副に補され、福建參政で終わった。
  • 肯堂は読書を好み、とりわけ医に精しく、著すところの『證治準繩』は該博精粋で、世は競ってこれを伝えた。