明史卷二百二十一 列傳第一百九 耿定向

出自と嚴嵩・髙拱との対立

  • 耿定向は字を在倫といい、黄安の人。嘉靖三十五年(1556年)の進士。行人に除せられ御史に抜擢された。
  • 嚴嵩父子が政を私していたころ、吏部尚書の吳鵬がこれに附いたので、定向は鵬の六罪を上疏し、あわせて鵬の婿である學士の董份が会試の總裁として鵬の子の紹宜を私したとして併せて斥けるよう言った。嵩が庇い立てたので事は結局立ち消えになった。
  • 甘肅の按察に出、挙劾に私するところがなく、任を去るとき荷物は一担ぎだけだった。石経を贈ろうとした者があったが、境目に置いて去った。
  • 還って南京の學政を督した。隆慶初、大理右寺丞に抜擢された。定向はかつて髙拱を狭量浅薄で大臣の度量がないと譏ったことがあり、拱は恨みに思っていた。拱が吏部を掌ると考察によって定向を横州判官に謫した。拱が罷めると衡州推官に移された。

南京右都御史としての紛議

  • 萬厯年間に累進して右副都御史となった。吏部侍郎の陸光祖が御史の趙之翰に弾劾されたとき、光祖はすでに留任していたが、定向はさらに光祖の賢を称え之翰をそしった。給事中の李以謙が、定向は言官を排斥していると言い、定向は退官を求めたが帝は問わなかった。
  • 刑部左右侍郎を歴任し、南京右都御史に抜擢された。御史の王藩臣が應天巡撫の周繼を弾劾したとき、疏を出して一か月を過ぎても定向に告げなかった。定向は怒って先例を守れと力争し、自ら弾劾して罷免を求め、あわせて藩臣の論劾は当を失していると難じた。さらに、もと江西巡撫の陳有年、四川巡撫の徐元泰はいずれも賢者でありながら御史の方萬山・王麟趾に弾劾されて罷められた、今こそ召し用いるべきで、藩臣は程よく罰すべきだと述べた。藩臣は俸二か月の停止に処された。
  • そこで給事中の許𢎞綱、観政進士の薛敷教、南京御史の黄仁榮および麟趾が相次いで定向を弾劾した。麟趾は述べた。南臺は京師から遠く、章疏が先に伝わって人が対策を立てられる。御史の孫鳴治が魏國公徐邦瑞を論じ、陳揚善が主事の劉以煥を論じたときも、いずれも奏辞があらかじめ漏れ、一方は縁故を頼って免れ、一方は言いがかりで誣いられた。だから近ごろは掲を出すのに一か月を跨ぐ者もあるので、事の理として当然であり、藩臣に始まったことではない、と。言葉はあわせて大學士の許國、左都御史の吳時來、副都御史の詹仰庇にも及んだ。
  • 執政はちょうど言論する者を憎んでいたので、敷教は郷里に還して過ちを省みるよう命ぜられ、麟趾と仁榮も俸を停められた。すでに定向は戸部尚書・督倉場に除せられていたが、定向は力を尽くして辞して退官を求め、章をたびたび上げてようやく許された。享年七十三。太子少保を贈られ、恭簡と諡された。

学問と李贄、弟の定理・定力

  • 定向は初め朝に立って時望があったが、のち徐階・張居正・申時行・王錫爵の四人の輔臣を経ていずれとも齟齬がなかった。居正の奪情のときには友人に書を寄せて居正を伊尹に譬えて称え諫言者を貶したので、当時の議論はこれをそしった。
  • その学は王守仁に本づく。かつて晉江の李贄を黄安に招いたが、のちしだいに嫌うようになり、贄もまたしばしば定向の短を言った。士大夫で禅を好む者はしばしば贄に従って遊んだ。贄は小才があって機知弁舌に長け、定向は勝てなかった。
  • 贄は姚安知府であったが、ある朝みずから髪を落とし、冠服のまま堂皇に坐したので、上官が解任を命じた。黄安に居るあいだ、日々士人を引いて講学し、婦女を交え、もっぱら釈氏を崇め、孔孟を卑しめ侮った。のち北のかた通州に遊び、給事中の張問達に弾劾されて逮えられ、獄中で死んだ。
  • 定向の弟に定理・定力がいる。定理は生涯諸生で終わり、定向とともに講学してもっぱら禅機を主とした。定力は隆慶年間の進士で、工部主事に除せられ、萬厯年間に累進して右僉都御史となり操江を督し、上疏して礦使の害を陳べた。さらに南京兵部右侍郎に遷って卒し、尚書を贈られた。