明史卷二百二十一 列傳第一百九 郭應聘

出自と広西の討賊

  • 郭應聘は字を君賓といい、莆田の人。嘉靖二十九年(1550年)の進士。戸部主事を授かり郎中を歴任し、南寧知府として出、威茂兵備副使に遷り、廣東參政に転じた。
  • 総督の吳桂芳に従って李亞元を平らげ、別に賊首の張韶南・黄仕良らを撃った。廣西按察使に遷り、左右の布政使を歴任した。
  • 隆慶四年、古田の賊を大破し、斬獲は七千有余。ついで巡撫の殷正茂に従って古田を平らげ、再び秩を進めた。正茂が総督に遷ると、應聘は右副都御史に抜擢されてその後任となった。

府江・懷遠の平定

  • 府江の猺が反した。府江は上は陽朔に起こり下は昭平に達し三百里余りにわたる。諸猺は江を挟んで住み、険を恃んで略奪した。正化・正徳年間に都御史の韓雍・陳金が討ち平らげたが、このとき荔浦・永安を攻め囲み、知州の楊惟執と指揮の胡潮を捕らえた。
  • 事が報ぜられると、大學士の張居正は便宜の権を仮すよう奏し、應聘に書を寄せて「炎熱瘴癘の地に数万の衆を駆り使うのに長く留めるべきではない。速やかにその巣を破れば残る賊は胆を潰そう」と言った。
  • 應聘は土兵・漢兵六万を集め、總兵官の李錫に進討を命じた。まだ発たぬうちに懷遠の猺もまた知縣の馬希武を殺して反した。應聘は正茂と議して先に府江を征し、三か月ですべて平定し、そこで錫に檄して懷遠を討たせたが、大雪に遭って功なく還った。
  • 懷遠は古の牂牁の地で、湖廣・貴州の靖州・黎平などの諸州に境を接し、郭の周囲はみな猺で、編戸の民はその外に住んだ。嘉靖年間に征伐したが克てず、知縣は府城に寄居して遠くから羈縻を示すだけであった。古田が回復されると猺は兵威に懾れて服属を願い、希武がはじめてその地に入った。しかし城を築く議を出し工事の督励が厳しすぎたため猺は乱を起こし、希武は殺された。
  • こうして出兵しても功がなかったので、應聘はさらに諸路の兵を調え、白杲・黄土・大梅・青淇の狪・獞を鎮撫して賊の勢いを孤立させた。錫と諸将は連戦して賊を破りその首魁を斬り、懷遠はついに下った。事はすべて錫の傳に詳しい。
  • 初め出兵を議したとき、錫は陽朔の金寶嶺の賊が近いのでまず滅ぼしたいと言ったが、應聘は「君はただ行かれよ、私に考えがある」と答えた。錫が発って数日後、應聘は按察使の吳一介とともに不意を襲ってその首魁を殺した。懷遠が克復されるころには陽朔も平定されていた。
  • そこで諸将の門崇文・楊照・亦孔昭らを分遣して洛容・上油・邊山の五つの叛猺を討たせ、ことごとく平らげた。神宗は大いに喜び、兵部右侍郎兼右副都御史に進め、巡撫は元のままとした。

両広の総督と晩年

  • 萬厯二年、召されて戸部右侍郎となったが、まもなく喪で帰った。八年、兵部兼右僉都御史に改めて起用され、なお廣西を撫した。
  • 当時、十寨が平定されたばかりだったので、應聘は総督の劉堯誨とともに奏して三鎮を設け、賓州に隷し、土巡檢に守らせて思恩の參將の統轄下に置いた。十寨はこうして安定した。
  • 右都御史兼兵部右侍郎に進み、兩廣の軍務を総督した。前任の総督は多く将吏から金を受けていたが、應聘はことごとく謝絶した。一年余りで召されて南京都察院を掌り、吳文華が代わった。まもなく兵部尚書參贊機務を拝した。久しくして病と称して帰った。
  • 應聘は廣西にあって陳獻章・王守仁の祠を復するよう奏した。劉臺が潯州に流謫されたときは住まいを借り上げ食糧を給し、没後は葬儀の資を出して喪を帰らせ、像を作って祀った。南京に官したときは海瑞とともに倹素を重んじたので、士大夫は奢侈を敢えてしなかった。帰って七か月で卒し、太子少保を贈られ、襄靖と諡された。

吳文華――広西・両広の経歴(附伝)

  • 吳文華は字を子彬といい、連江の人。父の世澤は府江兵備副使で威名があった。文華は嘉靖三十五年(1556年)の進士に挙げられ、南京兵部主事を授かり、四川右參政を歴任して土官の鳳繼祖の平定に加わり、四たび遷って河南左布政使となった。
  • 萬厯三年、右副都御史として廣西を巡撫し、南鄉・陸平・周塘・板寨の猺および昭平の黎福莊父子を討ち平らげ、総督の淩雲翼とともに河池・咘咳・北三の猺を征した。三猺は逆らったわけではなかったが、雲翼は事を好んで殺戮が甚だ惨たらしかった。それで蔭襲を得、文華も賞を受けた。
  • 戸部右侍郎に遷り、終養を請うて帰った。起用されて兵部右侍郎兼右僉都御史となり、なお廣西を撫し、兩廣軍務の総督に遷って廣東を巡撫し、右都御史に進んだ。
  • 巡撫の吳善・總兵の呼良朋とともに嚴秀珠と岑崗の賊を討ち平らげた。李珍と江月照が久しく命に抗していたので、文華は懸賞して月照を捕らえ、珍を平らげた。
  • まもなく入って南京工部尚書となり、そのまま兵部に改まったが、病と称して去った。なお南京工部に起用されたが力を尽くして辞し、三年ものあいだ席を空けて待たれたまま卒した。享年七十八。太子少保を贈られ、襄惠と諡された。