出自と荘田の議
- 王廷瞻は字を稚表といい、黄岡の人。父の濟は參政。嘉靖三十八年(1559年)の進士に挙げられ、淮安推官を授かり、入って御史となり畿輔の屯政を督した。
- 穆宗が裕邸にあったころ荘田を替えようとしたが、廷瞻は認めなかった。
- 隆慶元年、管下が長雨に見舞われると、三宮以下および裕府の荘田で乾清宮に編入されたものはすべて租を免ずるよう請い、詔で十分の五が減じられた。
- また、勲臣・外戚の荘田があまりに濫であるとして、初めて給する際に田数を裁量し世代を限るよう請い、制として認められた。
- 髙拱が再び輔政に就くと、廷瞻はかつて拱を論じたことがあったので、病と称して帰った。
四川の巡撫と越河の開鑿
- 神宗が立つと元の官で起用され、太僕卿を歴任した。萬厯五年、右僉都御史として四川を巡撫した。番族がしばしば松潘を犯したので、廷瞻は副使の楊一桂と總兵官の劉顯に討たせて首魁を殲滅した。群蛮は帰順を申し出、風村・白草の諸番は久しく二十八砦に居たが、男女八千余人を率いて降った。
- さらに總兵の顯に命じて建昌の傀厦・洗馬姑・宰鐵口の諸叛番を討たせ、いずれも首悪を差し出して降った。俸を一級増され、右副都御史に進んで南贛を撫した。
- 入って南京大理卿となり、両京の戸部左右侍郎を歴任し、右都御史として出て漕運を督し鳳陽諸府の巡撫を兼ねた。
- 寶應の汜光湖の堤は水を蓄えて漕運を助けるもので、平江伯の陳瑄が築いたものである。下流に排水口がなく、決壊して八つの浅瀬となり、集まって巨大な潭となり、諸塩場はみな水没した。淮の流れがまた奔り込んで勢いはいよいよ猛烈となった。
- 前任の巡撫である李世達らが越河を開いてその険を避ける議を出しており、廷瞻がこれを受け継いだ。渠を千七百七十六丈鑿ち、石閘三、減水閘二、石堤三千三十六丈、子堤五千三百九十丈を築き、公帑二十余万を費やして八月に竣工した。詔旨で褒め嘉され、河に「𢎞濟」の名を賜った。
- 廷瞻は戸部尚書に進み巡撫は元のまま。まもなく南京刑部尚書に改まったが、着任せずに帰郷を乞うた。久しくして卒し、太子少保を贈られた。兄の廷陳は文苑傳に見える。