明史卷二百二十一 列傳第一百九 袁洪愈

篇首の立伝者一覧

  • 袁洪愈(子の一鶚、譚希思)
  • 王廷瞻
  • 郭應聘(吳文華)
  • 耿定向(弟の定理・定力)
  • 王樵(子の肯堂)
  • 魏時亮(陳瓚)
  • 郝杰(扶克儉)
  • 趙參魯
  • 張孟男(衛承芳)
  • 李禎
  • 丁賓

出自と嚴嵩の党への弾劾

  • 袁洪愈は字を抑之といい、吳縣の人。嘉靖二十五年(1546年)の郷試に第一で挙げられ、翌年(1547年)進士となり、中書舍人を授かって禮科給事中に抜擢された。
  • 檢討の梁紹儒が権要に阿附していること、文選郎中の白璧が権を握って官を売っていること、尚書の萬鏜と侍郎の葛守禮が取り締まらなかったことを弾劾した。詔が下って鏜と守禮は厳しく責められ、璧は詔獄に下され、紹儒は外に斥けられた。紹儒は大學士嚴嵩の私人であった。
  • のち辺務の数事を陳べ、詔はいずれもこれに従った。嵩は吏部尚書の吳鵬に頼んで洪愈を福建僉事として出させた。河南參議・山東提學副使・湖廣參政を歴任し、いずれの地でも清節をもって知られた。
  • 嵩が失脚すると召されて南京太僕少卿となり、そのまま太常に遷った。隆慶五年、病で帰った。

南京での要職と清貧

  • 萬厯年間に元の官で起用され、南京工部右侍郎に遷り、右都御史に進んで南院の事を掌り、そのまま禮部尚書に改まった。
  • 南京御史の譚希思が中官と外戚を論じ、あわせて旧制に従って内閣に絲綸簿を設け宮門に鉄牌を置くよう請うた。詔が南京都察院に下されて取り調べが行われ、誣罔の罪に問われようとした。洪愈はすでに官を改めており後任も着任していなかったが、希思が陳べたところは王可大の『國憲家猷』と薛應旂の『憲章錄』の二書に載ると具申した。帝は依拠したものが頒行の制書でないとして希思を雑職に謫した。
  • 洪愈はまもなく上疏して権門への請託を禁ずるよう請い、また屯田の荒廃の害を極力諫め、商人に中鹽を許して内地からの輸送を免れさせるよう乞い、いずれも議行された。
  • 萬厯十五年、そのまま吏部に改まった。その冬、老齢を理由に休を乞うた。帝はその清徳を重んじ、太子少保を加えて致仕させた。
  • 洪愈は官籍に列して四十年余りになるが、住まいには垂木一本も増やさず、外出には徒歩であった。享年七十四。巡撫の周孔教が金を出して葬った。太子太保を贈られ、安節と諡された。子の一鶚は蔭によって治中となったが、粥さえ続かぬまま死んだ。希思は茶陵の人で、右副都御史を歴任し四川を巡撫した。