明史卷二百二十 列傳第一百八 李汝華

出自と南贛の巡撫

  • 李汝華は字を荗夫といい、雎州の人。萬厯八年(1580年)の進士。兖州推官を授かり、召されて工科給事中を授かった。
  • かつて戎政尚書の鄭洛を職に堪えぬと弾劾した。洛が甘肅の辺務閲視に出て西事を経略し和戎を主張すると、汝華は洛が敵を畏れて患いを残すと上疏し、あわせて諸将吏が軍資を横領していると弾劾し、さらに甘肅の閑田をすべて開墾するよう請うた。
  • 朝に還って吏科都給事中を歴任し、摘発するところが多かった。まもなく太常少卿に遷り、右僉都御史に抜擢されて南贛を巡撫した。
  • 税使が四方に出て、関津の諸税を括って内府に納めることが議されたとき、汝華は税はもともと軍を養うものだとして力争して止めさせた。
  • のち四方の税務をすべて有司に領させ、その半分を税監が内府に納め、半分を戸部に納める詔が出た。ただ江西の潘相だけは有司に強いてすべて自分を通して納めさせた。汝華は相が詔に違うと極論したが、帝は結局相の議どおりにし、しかもそれを四方に推し広めた。
  • 汝華は贛にあること十四年、威と恵がよく行き渡った。兵部右侍郎に秩を進め、召されて戸部左侍郎を拝した。

戸部尚書と遼餉の加賦

  • 尚書の趙世卿が退くと部の事を掌った。福王の荘田四万頃について詔旨がしきりに催したが額に達しなかった。汝華はたびたび廷臣とともに争い、わずかに四分の一を減らした。
  • 王が国に赴くと、自ら使者を遣わして租を督することを許す詔が出、至る所で駅が騒がされた。内使の閻時が汝州に至って二人を杖殺したので、汝華は祖制に従って有司に属させ、使者をすべて撤収させるよう請うたが、容れられなかった。
  • 畿輔と山東が大飢饉となったとき、汝華の言によって倉米を出して平糶し、また銀を出して賑わした。汝華はさらに救荒の数事を奏行し、両地はこれに頼った。
  • 先に山東の飢饉で年賦七十万を免じ、この年はさらに百七十余万をことごとく免じた。汝華は辺の餉が続かないため、天下の税課でまだ内蔵に入っていないものを一年間留めて欠を補うよう請い、輔臣も助けて言ったが、疏を三度上げても報ぜられなかった。
  • のち尚書に進んだ。四十六年、鄭繼之が去ると吏部の事も兼摂した。畿輔・陕西が大飢饉となり汝華は賑給を請うたが、いずれも報ぜられなかった。
  • 遼東の兵事が起こって餉が急に三百万増えた。汝華はしきりに内帑を出すよう請うたが得られず、そこで南京の部帑を借り、天下の庫蔵の余剰を括り、旧来の未納を徴し、工食を裁き、事例(納粟による官の売買)を開いた。
  • そこへ遼東巡撫の周永春が兵を増し賦を加えるよう請うたので、汝華は天下の田賦について貴州を除き一畝あたり銀三釐五毫を増やし餉二百万を得るよう議した。翌年もまた前と同じく兵を増し賦を増す議が出た。さらに翌年四月、兵部が募兵と馬の購入、工部が器械の製造を理由に再び賦の増徴を議し、そこで一畝あたり二釐を増して銀百二十万とした。前後三度の加賦は合わせて五百二十万有余となり、そのまま年額となった。
  • このとき内帑は山と積まれていたが、廷臣が支出を請うてもおおむね応ぜられず、計臣はどうしようもなく一切を苟且に済ませ、百姓から苛斂した。
  • しかも枢臣の徴兵は遠く南方の蛮地にまで及び、そのために奢崇明・安邦彦が相次いで反し、用兵が連年に及んだ。四川・雲南・廣西・湖廣・廣東で加えた賦を割いてその餉に充てたので、遼の餉はなお充たず、天下はすでに支えきれなくなっていた。
  • 汝華は練達勤勉で、朝に立って党に阿ることなく、戸部の官として長く国計に携わり、余剰と不足、辺の備蓄の虚実、塩・漕・屯・牧の諸大政にいたるまで心を尽くして按配した。年ごとの不作には常に寛恕を主としたが、ただ加賦の議だけは持ちこたえられず、そのために万方が疲弊し内外に紛乱を招いた。
  • 天啟元年(1621年)、病を得て休を乞い、太子太保を加えて致仕し、卒して恭敏と諡された。甥の夢辰には別に伝がある。

史論

  • 賛にいう。古来、文昌(尚書の職)は政の本と称され、七卿の任は重いものであった。萬士和ら諸人は職を奉じて勤め慮り、位を保つために阿る輩とは異なっていた。なかでも劉應節・王遴・舒化・李世達はとりわけ卓越していた。
  • 李汝華は国計を司り、兵事が起こって餉が不足したとき、内帑を請うても応ぜられなかった。それでも進退を賭けて争うことができず、権宜の策で急場をしのいだために、結局は苛斂誅求する者と同じ譏りを受けることになった。時勢がここまで至ったのは、まことに嘆かわしいことである。