明史卷二百二十 列傳第一百八 趙世卿

字は象賢、厯城の人である趙世卿。隆慶五年の進士で、張居正の厳酷な政治に対し「匡時五要」を奏して定員の拡大・駅伝の禁の緩和・死刑の削減・催科の緩和を請い、末尾で言路を開くべきことを極論したため楚府右長史に出され、翌年の京察で職を落とされた。居正の死後に復し、計数に長けて軍国の財政を支え、戸部尚書に進んだ。礦税使の害を繰り返し論じ、祖陵の災異を機に「礦税を罷むべき六つの理由」を上疏したが、帝は手厚く答えるだけで行わなかった。福王の婚礼や七公主の降嫁の宣索とも争い、十数度の辞職を経て去官。家居七年で卒し、太子少保を贈られた。

年表(5件)
  • 隆慶五年1571年進士に及第し、南京兵部主事を授かる
  • 萬厯三十二年蘇松の米税を全免するよう上言するが、四万を額とされ報ぜられない
  • 萬厯三十四年三月に礦使を罷める詔が出るが、遼東・雲南・四川の税使は元のまま残る
  • 萬厯三十六年七公主の降嫁の要求に先例を引いて力争し、額を減らさせる
  • 萬厯三十八年秋に疏を捧げて城を出て命を待ち、そのまま職を去る

出自と匡時五要の上奏

  • 趙世卿は字を象賢といい、厯城の人。隆慶五年(1571年)の進士。南京兵部主事を授かった。
  • 張居正が国政を執って政は厳を尊び、州縣の学が士を取るのは十五人を超えてはならず、布政・按察二司以下の官は公事であっても駅馬に乗ることを許さず、死刑の数は年ごとに定額があり、賦の徴収は九分を基準として基準に達しない有司は罰せられ、さらに言事する者をたびたび重く譴責した。
  • 世卿は「匡時五要」を奏し、士を取る定員を広げ、駅伝の禁を寛くし、死刑を省き、催科を緩めるよう請い、末尾で言路を開くべきことを極論した。
  • そこで述べた。近ごろ臺諫は媚びへつらいを習いとして世に取り入ろうとし、軍国に関わる事にも舌を巻いて声を出さず、ただ急がぬ事柄を拾って言責を塞ぎ、数年を経れば平然と卿貳の位に高く踞って士林に誇っている。しかしこの人々はみな節操なく恥じ知らずで陛下に背いているのではなく、懲りて敢えてしないだけである。先年の傅應禎・艾穆・沈思孝・鄒元標はみな建言によって遠く流され、今なお戍卒の列にある。中程度の才の士が自らを顧みて寒蟬に等しくあろうとするのはこのためだ。特に徳音を発して諸人を放ち還され、聖天子に直言を憎む意のないことを天下に明らかにされれば、士はみな義を慕い誠を尽くして陛下に忠を効そう、と。
  • 居正は重く罪しようとしたが、吏部尚書の王國光が「罪すればかえってその名を成すだけです。公のために怨みを引き受けましょう」と言い、楚府右長史として出された。翌年の京察でまた不謹を理由に職を落とされ帰郷した。

戸部尚書としての礦税反対

  • 居正が死ぬと戸部郎中として起用され、陕西副使として出、累進して戸部右侍郎となり倉場を督理した。世卿は計数に長け、条奏はすべて余剰と不足を按配したもので、軍国はこれに頼った。
  • 戸部尚書の陳渠が病み、侍郎の張養蒙が避けて署事しなかったので、帝は怒って二人を罷め、世卿を尚書に進めた。
  • 当時、礦税使が四方に出て害をなし、江西の税監である潘相は擅に宗室を捕縛するに至った。かつて関税の収入は年に四十余万であったが、税使に奪われて商賈が行かず、数年の間に三分の一に減り、四方の雑課も同様であった。年収はいよいよ乏しく国用は支えられず辺の備蓄は欠乏を告げたが、内府への供給は日々増え、年に金花銀二十万を加増していた。
  • 世卿は金花銀を旧額の百万に復し追加分を罷めるよう請うたが許されず、内庫の銀百万と太僕の馬価五十万を出して辺の備蓄を救うよう乞うたが、また旨に忤らって厳しく責められた。さらに潘相の罪を正すよう請い、九卿とともにたびたびその害を陳べたが、いずれも容れられなかった。
  • 世卿はまた「民の脂膏はすでに尽き、里巷は寂れ果て、喪乱が憂えられる。竿を掲げる(反乱)のも遠くはない。今のうちに罷めなければ後では及ばぬでしょう」と述べたが、帝は省みなかった。
  • 三十二年、蘇松の税監である劉成が水害を理由に米税の暫時停止を請うたが、帝は年額六万のうち米税が半ばを占めるから全部を停めるべきでないとして四万を額とするよう命じた。世卿は上言した。先に米税を免じながらすぐまた徴し、すでに天下に大信を失っている。今、成が税額の半分を免じたいと言うのに陛下が全部は従われぬのでは、惻隠の一念はむしろ宦官にあって陛下はかえって心を動かされぬということになりましょう、と。報ぜられなかった。

礦税を罷むべき六つの理由

  • その夏、雷火が祖陵の明楼を焼き、妖しい虫が樹を蝕み、また大雨が神道の橋梁を壊した。帝は詔を下して実政を諮った。世卿は上疏して、今日の実政で礦税を罷めることより切実なものはないとして六条を挙げた。
  • 第一、古の明主は珍奇な物を貴ばなかった。今は道理に背いて得た財を集め蒼生の怨みを歛めている。倹約とは何であったか。これは君徳のために罷めざるを得ない。
  • 第二、多く取ることは咎を招き、蔵を粗末にすれば盗を教えることになる。鹿臺・鉅橋の故事は倒戈の禍を招くに足りた。これは宗社のために罷めざるを得ない。
  • 第三、古は国家に事がなければ農桑の課に努め、事があれば金湯の策を議した。四海の山を鑿ち、三家の市を専売し、弓を操り矢を挟んで良民を害し、家を焼き垣を越えて禍いを鶏犬にまで及ぼし、十数年経ってもやまぬなどということがあろうか。これは国体のために罷めざるを得ない。
  • 第四、宦官どもは漁り取り、虎の翼を得たように猛り、塚墓を毀ち掘れば枯骨が災いを蒙り、子女を犯せば良家に恨みが残る。人ごとに怨みを結び騒擾がしばしば聞こえる。これがやまねば後はどうにもならぬ。これは民の困窮のために罷めざるを得ない。
  • 第五、国家の財賦は民になければ官にある。今はことごとく奸人の家に括り入れられている。だから未納の租を督しても未納は減らず、関税を調べても関税は欠け、庫蔵を捜しても庫蔵は絶え、塩策を課しても塩策は薄く、贖罪金を徴しても贖罪金は消える。外府は空になり司農は掃いたようだ。これは国の課税のために罷めざるを得ない。
  • 第六、天子の令は四時のように信あるべきである。三年前に「朕の心は仁愛であり、自ら停止する時がある」と仰せられたのに、今年また来年と、いつまで待つのか。天子に戯言があり、王命が草莽に委ねられている。これは詔令のために罷めざるを得ない。
  • さらに述べた。陛下、試みに思われよ。服食・宮室から営造・征討に至るまで、上は何ごとも民から取り、民は何ごとも上に供している。この赤子はかつて国に負くところがない。民は歓呼して九重の欲に供しているのに陛下は少しもその欲を遂げさせず、民は奔走して九重の労に供しているのに陛下は少しもその労を慰めず、民は力尽きて九重の難に赴いているのに陛下は少しもその難を恤まれない。心に返ってみれば必ず自ら安んじえぬものがありましょう。陛下、蠢々たる小民は思いのままに馭し生殺できると思って意に介さぬなどとは仰せられますな。民の心はすなわち天の心です。今、天譴が頻りに重なり、雷火・妖蟲・淫雨が続けて至っています。変異は無意味には生ぜず、その応報は遠くありません。ゆえに今日、天意を回らすには民心を恤むにあり、民心を恤むには礦税を罷めるにあります。再考するまでもなく決すべきことです、と。
  • 帝は手厚く答えたが実行しなかった。三十四年三月に至ってようやく礦使を罷める詔が出、税もいくらか減じたが、遼東・雲南・四川の税使は元のままで、吏民はことに苦しんだ。雲南ではついに変が起こり楊榮が殺された。

度重なる宣索との争いと去官

  • 西北では水旱がしばしば報告され、世卿は再三、租の減免と賑給を請うたので、国用はますます支えられなくなった。一か月余りののち、さらに内帑百万を出して軍用を助けるよう奏請したが、従われなかった。
  • 世卿は相次いで退官を求め十五度に及んだが、ついに許されなかった。
  • 先に福王の婚礼にあたって部の帑二十七万を献じたが、帝はなお少ないとして何度も中使を遣わして催促した。中使は罵言を吐き、しかも世卿が命に抗したと弾劾した。世卿は国の恥だとして朝廷に上聞したが、帝は不問に付した。
  • 三十六年、七公主の降嫁にあたり要求が数十万に及んだ。世卿は先例を引いて力争し、詔で三分の一を減らした。世卿はさらに「陛下の大婚でも七万、長公主の降嫁でも十二万にとどまりました。もう一段お減らしになり長公主の例に倣われますよう」と述べ、帝はやむなくこれに従った。
  • 福王が新たに府第を出て崇文の税店を設け民と利を争ったときも、世卿は諫めて阻んだ。
  • 世卿は平素から清廉な操を励み、官にあっては職を尽くしたので帝も重んじた。吏部の尚書が欠けたとき兼署させたが、推挙に私するところがなかった。
  • ただ楚の宗人と王とが互いに暴き合ったとき、世卿が王は偽物でないと力説して沈一貫の議と合致し、また李廷機の輔政にあたって力を入れて推したため、廷臣は世卿が党を組んでいると疑った。
  • そこで給事中の杜士全・鄧雲霄・何士晉・胡忻、御史の蘇為霖・馬孟禎らが相次いで弾劾した。世卿は門を閉ざして退官を乞い、章はまた十余度に上ったが報ぜられなかった。
  • 三十八年秋、世卿はついに疏を捧げて城を出て命を待ち、翌年十月、柴車に乗ってそのまま去った。廷臣が上聞したが帝も罪しなかった。家居して七年で卒し、太子少保を贈られた。