明史卷二百二十 列傳第一百八 呉百朋

出自と南方の討賊

  • 呉百朋は字を維錫といい、義烏の人。嘉靖二十六年(1547年)の進士。永豊知縣を授かり、召されて御史を拝し、淮揚・湖廣を按察し、大理寺丞に抜擢されて右少卿に進んだ。
  • 四十二年(1563年)夏、右僉都御史に進んで勛陽を撫治し、提督軍務・南贛汀漳巡撫に改まり、兩廣提督の呉桂芳とともに河源の賊李亞元、程鄉の賊葉丹樓を討ち平らげ、また師を合わせて海豐で倭を破った。
  • はじめ廣東大埔の民である藍松山・余大眷が乱を起こし、漳・延・興・泉の間を流れ歩いて略奪した。官軍が撃破すると永春に逃れ、香寮の盗である蘇阿普・范繼祖と兵を連ねて徳安を犯したが、都指揮の耿宗元に敗れ、偽って招撫を請うた。百朋も表向きは兵を罷め、賊の一味を誘って内応させ、前後してことごとく捕らえた。

三巣の平定

  • ただ三巣だけが下らなかった。三巣とは、和平の李文彪が岑岡に拠り、龍南の謝允樟が髙沙に拠り、賴清規が下厯に拠ったものである。朝廷は倭の患いが厳しいため討たぬまま十年近くになっていた。
  • 文彪が死ぬと子の珍と江月照が跡を継ぎ、いっそう猖獗をきわめた。
  • 四十四年(1565年)秋、百朋は右副都御史に進み巡撫は元のままで、上疏して述べた。三巣は僭号して王を称し、招撫されてはすぐ叛く。廣東の和平・龍川・興寕、江西の龍南・信豐・安逺が半ば以上蚕食されており、急ぎ討たねば禍いは言うべからざるものになる。三巣のうち清規だけが江西・廣東の六県にまたがって最も命に逆らっているので、用兵は必ず下厯から始めるべきである、と。帝は部の議を採ってこれに従った。
  • 百朋は守備の蔡汝蘭に命じて清規を苦竹嶂で捕らえさせ、賊の群れは震え上がった。

辺鎮の閲視

  • 隆慶初、吏部は百朋が長く兵事に苦労したとして大理卿に遷そうとしたが、給事中の歐陽一敬らが百朋を留めて賊を勦らせるよう請い、兵部右侍郎兼右僉都御史に進めて巡撫はそのままとする詔が出た。
  • 百朋は春夏の用兵は農耕を妨げるのでしばらく招撫に任せるべきだと奏し、帝はこれに従った。
  • まもなく南京兵部右侍郎に抜擢され、終養を乞うたが許されず、刑部右侍郎に改まった。父の喪で帰り、起用されて兵部に改まった。
  • 萬厯初、命を奉じて宣大山西の三鎮を閲視し、糧餉・險隘・兵馬・器械・屯田・鹽法・畨馬・逆黨の八事によって辺臣を査定し、督撫の王崇古・呉兑、總兵の郭琥以下について昇進・賞与・罷免・剥奪に差をつけた。
  • また辺図を献じ、関塞の険阻、畨族の部落、士馬の強弱、亭障の遠近が手のひらを指すように明らかであった。
  • 母を省みるため帰り、南京右都御史として起用され、召されて刑部尚書を拝したが、一年あまりで卒した。