明史卷二百二十 列傳第一百八 王之誥

出自と辺境の軍務

  • 王之誥は字を告若といい、石首の人。嘉靖三十三年(1554年)の進士。吉水知縣を授かり、戸部主事に遷り、兵部員外郎に改まり、河南僉事として出て師尚詔の討伐に功があり、參議に転じた。
  • 大同兵備副使に調され、板升を襲撃した功で俸を一級増され、山西右參政に進み、右僉都御史に抜擢されて遼東を巡撫した。屯田を大いに興し、一営ごとに田百五十頃を墾き、軍四百人を役した。便宜の八事を列挙して上申し、実行された。
  • 召されて兵部右侍郎となり、まもなく左侍郎として宣大山西の軍務を総督した。

石州陥落の責任

  • 隆慶元年(1567年)、その任地で右都御史に進んだ。俺答が石州を犯すと、之誥は山西總兵官の申維岳と參将の劉寳・尤月・黒雲龍の四営の兵に敵の後を追って南下させ、大同總兵官の孫呉・山西副總兵の田世威らに檄して天門關を出させ、敵の東方への帰路を遮らせた。
  • しかし巡撫の王繼洛が代州に駐まって出ず、維岳も進めなかったため、石州はついに陥落した。殺された者は数万、通過した所には生き残りがなく、十四日にわたって大掠奪をして去った。
  • 事が報ぜられると、維岳・世威・寳は死罪と論じられ、繼洛は辺境に戍られ、呉は職を落とされた。之誥は南山を守って還ったことにより、二秩を貶されるだけで済んだ。
  • 翌年、之誥に左侍郎として薊遼・保定・宣大・山西を巡視させ、侍郎の劉燾に陕西・延綏・寕夏・甘肅を巡らせる詔が出たが、之誥は病を理由に辞し、冀練が代わった。のち給事中の張鹵の言によっていずれも取りやめとなった。

刑部尚書と張居正

  • 三年、京營の監督として起用され、右都御史に進んで陕西三邊の軍務を総督した。延・寧の将士が巣を襲った功で一子に官を与えられた。南京兵部尚書に遷った。
  • 神宗が位を継ぐと召されて刑部尚書を拝した。張居正が専政するにあたり、之誥は姻戚の関係があったので、たびたびこれを諫めた。
  • 萬厯三年、休暇を乞うて母を送って帰り、期限を過ぎても戻らなかったため弾劾されたが、ちょうど之誥自身も終養を願い出ていたので、許可された。
  • のち居正が父の喪に遭いながら奪情され、諫言した者を闕下で杖ったとき、埋葬から闕に還った居正に対し、之誥は直臣を召し還して人心を収めるよう勧めた。
  • 卒して太子太保を贈られ、端襄と諡された。

劉一儒――張居正の姻戚でありながら潔白を保つ(附伝)

  • 当時、夷陵の劉一儒という者がいた。字は孟真、居正の姻戚である。嘉靖三十八年(1559年)の進士で、累進して刑部侍郎となった。
  • 居正が国政を執っていたころ、書を贈って諫めたことがある。居正が没して親族・党与がみな連座して斥けられたなか、一儒だけは高潔の名を得た。
  • まもなく南京工部尚書を拝したが、わずか半年で病と称して帰った。
  • 初め居正の娘が一儒の子に嫁いだとき、真珠や綾絹が箱に満ちていたが、一儒はすべて別室に封じておいた。居正の死後、その資産がことごとく官に没収されると、一儒はかつて封じておいた品を出して返した。
  • 南京御史の李一陽が、一儒を朝廷に召し還して無欲・謙譲の風を励ますよう請い、帝はその奏を可としたが、一儒はついに召しに応ぜず、家で没した。天啓年間に莊介と追諡された。