明史卷二百二十 列傳第一百八 萬士和

篇首の立伝者一覧

  • 萬士和
  • 王之誥(劉一儒)
  • 呉百朋
  • 劉應節(徐栻)
  • 王遴
  • 畢鏘
  • 舒化
  • 李世逹
  • 曾同亨(弟乾亨)
  • 辛自修
  • 温純
  • 趙世卿
  • 李汝華

出自と地方官の歴任

  • 萬士和は字を思節といい、宜興の人。父の吉は桐廬の訓道をつとめ、学問があった。
  • 嘉靖二十年(1541年)の進士となり、庶吉士に改められ、禮部主事を授かった。父の喪が明けると、母を養うのに便利な地をと願い出て南京兵部に移った。
  • 累進して江西僉事となり、毎年上供していた磁器千個あまりを削減した。貴州提學副使に遷り、湖廣參政に進んで、叛いた苗の二十八砦を手なずけて帰順させ、その功で銀と幣を賜った。
  • 三殿の造営が一斉に始まり、材木を伐り出す使者が絶え間なく往来したが、士和は手配を行き届かせたので民は安んじた。
  • 江西按察使に遷ったが、赴任が期限を過ぎたとして弾劾され免ぜられた。のち山東按察使として起用され、さらに廣東左布政使に遷った。

左右両使の分業

  • 廣東では従来、政務は左布政使だけが決裁する慣例だった。士和は「朝廷が二人の使を置いたのは左右の手のようなもので、上下の別があるわけではない」と述べ、右使と申し合わせて日を分けて執務した。
  • 應天府尹に召されて拝命し、その道中で右副都御史に遷って南京の糧儲を監督し、民を利する六事を奏請した。
  • 隆慶初、戸部右侍郎に進んで倉場を総督し、まもなく禮部に移って左侍郎に進んだが、病を理由に帰郷した。

禮部尚書として張居正に忤らう

  • 神宗が立つと南京禮部侍郎として起用され、國子監の事を署理した。萬厯元年(1573年)、禮部尚書の陸樹聲が退くと、張居正は樹聲の推薦を容れて士和を後任に召した。
  • 倹約を旨とする数箇条を上申し、また災異がしばしば現れることを理由に、寵臣の口利きの門を塞ぐこと、直言する者を容れること、冗員を汰ること、私的な請託を抑えることを願い出た。時の忌諱に触れることが多かった。
  • 俺答とその部下が馬を献上した際、辺境の臣が官賞の加増を求めたが、士和は「賞賜には定額がある、辺臣の額外の請願に従ってはならない」と述べ、その通りになった。
  • 方士が馮保を頼って官を求めたときは、士和は認めなかった。成國公朱希忠が没して居正が王の追贈を許そうとしたときも力争した。給事中の余懋學が言事によって罪を得たときは「直臣を斥けるべきではない」と論じた。
  • こうして居正への忤らいが積み重なり、給事中の朱南雍がその意を汲んで弾劾したため、病と称して去った。
  • 居正が没すると南京禮部尚書として起用されたが、老齢を理由に再度上疏して赴かなかった。享年七十一。太子少保を贈られ、文恭と諡された。