明史卷二百二十 列傳第一百八 劉應節

出自と遼東・順天の巡撫

  • 劉應節は字を子和といい、濰の人。嘉靖二十六年(1547年)の進士。戸部主事を授かり、井陘兵備副使を歴任して三關を兼轄した。三關が井陘道に属するのはこれに始まる。
  • 四十三年(1564年)、山西右參政から右僉都御史に抜擢されて遼東を巡撫した。母の喪で帰る。
  • 隆慶元年、河南の巡撫として起用された。諳達が石州を寇して山西が騒然となり、應節に救援に赴くよう詔されたが、すでに敵は退いていた。
  • ちょうど順天巡撫の耿随卿が平民を殺して首功に充てた罪で逮治されたので、應節を代わりとした。
  • 永平の西門から海口までは天津まで五百里しかなく漕運が通じると建議し、海路に習熟した民を募って天津で運送を請け負わせ、運官とともに海に出て永平に達させるよう請うた。部議は漕卒に危険を冒させるのは不便として、山東・河南の粟十万石を天津に貯え、永平の官民に自ら運ばせることとした。

薊遼の総督と密雲の漕運

  • 四年秋、右副都御史に進み巡撫は元のまま。まもなく兵部右侍郎兼右僉都御史に進み、譚綸に代わって薊遼保定の軍務を総督した。永平・宻雲・覇州の採鉱を罷めるよう奏した。
  • また御史の傅孟春の言に因り、諸鎮の備蓄は年の豊凶を計るべきで、平年は折色(銀納)にすれば軍に便で粟を蓄えられ、凶年は本色(現物)にすれば飢えを救えて銀を蓄えられる、と議した。
  • 翌年、密雲への漕運を通すよう建議して上疏した。密雲は潮水・白水の二水に囲まれ、天が漕運の便のために設けた地である。以前は二水が分かれて流れ牛欄山でようやく合していたので、通州の運船は牛闌山より上は陸運で龍慶倉まで運ばねばならず苦労が甚だしかった。今は白水が城の西に流れを移し、潮水との距離は二百歩に満たない。渠を疏し壩を築いて一つの流れに合わせれば、水深く漕運に便となる。旧来の昌平の運送額は合わせて十八万石余りだったが今は十四万にとどまり、密雲はわずかに十万を得るのみで、商人を召し募る一法に頼るほかないが、土地は痩せ民は貧しく長くは頼れない。通倉の米は多くが赤く腐りかけている。もし五万石を密雲に漕運し、本鎮の折色三万五千両を京軍に留めて給すれば、通倉に腐った粟はなくなり、京軍は実恵にあずかり、密雲は商人の徴発を免れる。一挙にして三つの善が備わる、と。可とされた。

薊鎮の兵力をめぐる上疏

  • 給事中の陳渠が、薊鎮には空名の兵籍が多いとして兵を査定し餉を省くよう請うたのに対し、應節は上疏した。
  • 国初に太寧・薊門を設けたころはなお内地と称した。大寧が内へ移り三衛が反覆してからは、あらゆる防禦の計は宣府・大同と同格になったのに、定員の兵は三万に満たない。急なとき外兵を召せば奔命に疲れ、しかも半ばは弱兵である。そこで客兵を減らして土着の者を募る議が出たが、遊食の徒は飢えれば集まり飽けば飛び去る。逃亡兵の摘発を請えば、摘発されるのは老人と子供ばかりで、その隊伍に安んずるとも限らない。
  • 本鎮は西は鎮邊に起こり東は山海に至る。地形に応じて兵を配すれば三十万でなければ足りないが、今は主兵・客兵合わせて十三万にすぎない。宣府は地方六百里で定員十五万、大同は地方千余里で定員十三万五千。今、薊・昌は二鎮ぶんの地を兼ねながら兵力だけが足りない。
  • 今の上策は、精兵二十余万を発して大寧を回復し外辺を制し、畿輔の肩背を厚くして宣府・遼東の声援を通じさせることで、これは万年の利である。そうでなければ兵三十万を集めて分屯・列戍し首尾相応じさせる、これは百年の利である。それも無理なら主兵・客兵十七万を選んで訓練を成し隣鎮に頼らずに済ませる、これは目前の苟安の計にすぎない。
  • ところが今はそのいずれでもなく、兵を徴すのは旗を並べるがごとく、餉を請うのは糧を乞うがごとく、操練は砂を握るがごとく、教戦は虎を語るがごとくである。辺は長く兵は寡なく、襟を引けば肘が出る有様だ。やむを得ぬ計として、しばらく新軍を摘発して主兵の旧額十一万を補い、入衛の客兵と交代で休息させれば、軍は疲労を訴えず辺の計もいくらか定まろう、と。
  • 部議はその通り担当官に軍籍の整理を行わせたが、兵を補うという説はついに実行されなかった。

晩年と膠菜河の議

  • 萬厯元年、右都御史兼兵部右待郎に進み総督は元のまま。南京工部尚書に進み、召されて戎政尚書となり、刑部に改まった。
  • 錦衣の馮邦寜は太監の馮保の甥である。路上で出会って避けなかったため、應節は叱って下馬させた。保は面白く思わなかった。
  • たまたま雲南參政の羅汝芳が表を奉じて京に至ったとき、應節は郭外に出て禅を談じた。給事中の周良寅がこれを論じ、汝芳ともども弾劾されて罷免された。卒して太子少保を贈られた。
  • 初め王宗沐が海運を建議したとき、應節は工部侍郎の徐栻とともに膠菜河を開くよう請い、張居正が力を入れてこれを主張し、栻を僉都御史兼任として派遣した。しかし山を鑿ち泉を引く計画で費用は百万に上ると見積もられ、議する者が争って論駁したので、栻を召し還してその役を罷めた。栻は常熟の人で、累進して南京工部尚書に至った。