出自と礼部尚書
- 馬自强、字は體乾、同州の人。嘉靖三十二年(1553年)の進士。庶吉士に改められ檢討を授かった。
- 隆慶年間に洗馬を歴任して経筵に侍し、國子祭酒に遷って学政を引き締め、請託を通じさせなかった。少詹事兼侍讀學士に遷って翰林院を掌った。
- 神宗が皇太子として出閣した際に講官を務め、説き方が明快で切実だったので寵遇を受けた。即位の頃には自强はすでに詹事に遷って庶吉士を教習していたので、禮部右侍郎に抜擢して日講官とし、まもなく左侍郎として詹事府を掌り、なお講義を続けた。
- 継母の喪に遭って帰り、服喪が明けると、もとの官のまま詹事府を協理せよとの詔が下り、着任すると吏部左侍郎に遷って引き続き経筵に侍した。二か月で廷推によって禮部尚書に挙げられた。帝が使者を遣わして居正に、尚書が講官を兼ねられるかと尋ねると、居正は職務が繁多で兼ねられぬと答えたので、尚書に用いて日講を罷め、経筵の講官とした。
- 礼官の掌る宗藩の事はもっとも多く、先後の条例が互いに食い違うので、狡猾な吏が思うままに不正の利を得ていた。自强は妥当なものを選んで属吏に遵守させ、用いるべきでないものはすべて排し、藩府の疏が来るたびに即座に裁決して部の門に掲示し、可否を明示したので、吏は利をむさぼる余地がなくなった。
- 龍虎山の正一真人は隆慶年間にすでに提㸃に降格され印と敕を取り上げられていた。ここに至って張國祥が旧称の回復を求めたが、自强はその奏を握りつぶした。國祥は馮保に重い賄賂を贈って強く回復を求め、自強は不可として譲らなかったが、結局は中旨で許された。
- 初め諳達との通貢では市賞に一定の額があったが、後に辺臣が相手の求めに従って額は次第に膨らんだ。自強はもとの取り決めを守り、みだりに求める者には与えぬよう請い、年々の節減は少なくなかった。
- 『世宗實錄』が成って太子少保を加えられた。
入閣と死
- 萬厯六年(1578年)三月、居正が父を葬るため帰郷するにあたり、郷里にいる閣臣のうち高拱は自分と深い溝があり、殷士儋は後ろ盾が多いので、隙に乗じて出てくるかもしれぬと案じた。ただ徐階は老いて与しやすいので、自分の代わりに薦めようと考え、使者をやって階に知らせた。しかし階は先輩であり、復帰すれば自分がその下に位することになると気づき、そこで閣臣の増員を請うた。帝はすぐ居正に人選させたので、人望を理由に自強と、親しい申時行を薦めた。詔で自强に太子太保を加え文淵閣大學士とし、時行とともに機務に参与させた。
- 自强はもと呉中行・趙用賢を救おうとして居正に逆らっており、自分は望むべくもないと思っていたので、この任命が下ると、人々はこれによっていっそう居正を評価した。
- 当時、呂調陽と張四維が先に閣にあった。調陽は衰えてしばしば病臥して出ず、小事は四維が代わって諭旨を擬し、大事は江陵の居正に急使を送ってその裁決を仰いだ。自强は正しさを持したが、なすところはなく、位を守るだけであった。
- のち居正が朝に帰り、調陽は政を退き、自强も病を得て卒した。詔して少保を贈り、諡は文莊。行人を遣わして喪を護送して帰らせた。
- 子の怡は挙人で參議に終わり、慥は進士で尚寳卿。
- 関中の人で入閣したのは自強に始まり、その後は薛國觀が続き、明の世を通じてこの二人だけであった。