篇首の立伝者一覧
- 張四維(子の泰徵・甲徵)
- 馬自强(子の怡・慥)
- 許國
- 趙志臯
- 張位
- 朱賡(子の敬循)
出自と高拱時代
- 張四維、字は子維、蒲州の人。嘉靖三十二年(1553年)の進士。庶吉士に改められ編修を授かった。隆慶の初め、右中允に進んで経筵に侍し、まもなく左諭徳に遷った。
- 四維は快活で才智があり、時事に明るかった。楊博・王崇古は長く辺境を歴任して兵事を語るのに巧みで、博は四維と同郷、崇古は姉の子にあたる縁から、四維も辺務に通じていた。高拱は彼を深く重んじ、吏部を掌ると翰林學士に抜擢し、わずか二か月で吏部右侍郎に拝した。
- 諳達(アルタン)の封貢の議が起こったとき、朝廷の要路は決しかねていたが、四維が拱との間を取り持って和議が成った。拱はいよいよ四維を有能とし、四維も出世を求めてやまなかったので、朝士にはこれを憎む者もあった。
- 御史の郜永春が河東の塩務を視察し、塩法が壊れたのは勢家が横行し大商が利を独占するからだと述べ、四維と崇古を勢家と名指しし、四維の父と崇古の弟が大商であると言った。四維は上奏して弁明し、辞職を乞うたが、拱が力を尽くしてかばい、温かい詔で慰留された。
- 初め趙貞吉が位を去ったとき、拱は四維を入閣させようとしたが、殷士儋が縁故を頼って入閣したので、諸人は互いに争うようになった。御史の趙應龍が士儋を弾劾し、士儋がまだ去らぬうちに、言路にはまた四維を弾劾する者が出た。四維はすでに左侍郎に進んでいたが、やむを得ず退いた。まもなく士儋も去った。
- 東宮が出閣するにあたって四維は侍班官として召されたが、給事中の曹大埜が、四維は拱に賄賂して召されたと言った。四維は急ぎ疏を上げて弁明し罷免を求めたが、帝は許さず、入朝を促した。着かぬうちに穆宗が崩じ、拱は政を罷められた。
張居正のもとでの入閣
- 張居正が国政を担うと、四維はまた病と称して帰郷した。四維の家はもともと富裕で、季節ごとの贈物を居正に絶やさなかった。武清伯の李偉は慈聖太后の父で、もと山西の籍だったので、四維は縁を結んで後ろ盾とした。
- 萬厯二年(1574年)、再び召されて詹事府を掌った。翌年三月、居正が閣臣の増員を請い、四維を推薦した。馮保もまた四維と親しかったので、禮部尚書兼東閣大學士として入り機務を輔けた。
- この頃、政事はすべて居正が決し、居正は少しも譲らず、同列を歯牙にもかけなかった。四維は居正の推挙で進んだので謹んで仕え、あえて可否を言わず、後についてただ賜物を拝し官に進むばかりであった。
- 居正が卒すると四維がようやく国政を担い、少師・吏部尚書・中極殿大學士まで累加された。
- もともと四維は居正に曲げて仕えていたが、内心では堪えかね、諭旨の起草も居正の意のままにはしなかったので、居正も次第に彼を憎んでいた。政を得ると、内外が居正に苦しめられていたことを知り、大いに人心を収めようとした。ちょうど皇子誕生の詔を天下に頒つ機会に疏を上げ、今は法紀も整い天下も安らかで治平と称してよいのに、文武の諸臣が朝廷の励精の本意を解さず、急き立てて煩瑣なことばかりし、徴収に節度がなく政令が食い違い、内外が騒がしくなって生を楽しむ心を失っている、この大慶に際して煩苛を洗い流し恩沢を広く行き渡らせ、四海の民に帝徳を仰がせるべきである、それこそ人心を養い国脈を培う要諦だと述べた。帝は嘉納した。
- これ以後、朝政はやや変わり、言路も発言を許されて居正時代の事を非難するようになった。そこで居正の一党は大いに恐れ、王篆・曾省吾らは申時行と厚く結んで助けとした。
- 馮保は両宮の徽号にかこつけて自分を伯に封じさせようとし、それを押し留める四維を憎んだ。篆・省吾はこれを知って保に厚く賄賂し、たびたび四維を讒言させ、また親しい御史の曹一夔に、吏部尚書の王國光が四維に取り入り、その中表の弟の王謙を吏部主事に抜擢したと弾劾させた。時行は諭旨を擬して國光を罷め、謙も左遷した。四維は帝の慰留を得てまた出仕した。その命が下ったばかりのところへ、御史の張問達がまた四維を弾劾した。四維は窮して、保の腹心である徐爵・張大受に賄賂を求めさせ、保の心はやや解けた。時行は問達を外に出して四維を安んじたが、四維は時行も謀にあずかっていたと見て、ついに恨みを抱いた。
- やがて中官の張誠が保を讒言し、保への寵愛は大いに衰えた。四維は門生の李植らに意を含めて保の奸状を暴かせ、保および篆・省吾は皆追放され、朝廷の情勢は一変した。
- そこで四維は、居正に沈められていた海内の正しい人々を少しずつ引き上げた。すぐに全員を登用できたわけではないが、前代の事を力を尽くして改めたので、時望はかなり彼に集まった。
- 雲南の貢金が期限に遅れたとき、帝は守土の官を罪しようとし、また雲南に旧く貯えた礦銀二十万を取り上げよと詔したが、いずれも四維の言によって取りやめとなった。
- まもなく父の喪で帰郷し、服喪が明けようとする頃に卒した。太師を贈られ、諡は文毅。
- 子の泰徵・甲徵はいずれも四維が政権にあった時に進士となった。泰徵は湖廣參政まで累進し、甲徵は工部郎中。