明史卷二百十八 列傳第一百六 沈㴶

父の節甫

  • 沈㴶、字は銘縝、烏程の人。
  • 父の節甫は字を以安といい、嘉靖三十八年(1559年)の進士。禮部儀制主事を授かり、祠祭郎中を歴任した。禁中に祠を建て黄冠(道士)に祈らせよとの詔が出たとき、節甫は不可として譲らず、尚書の髙拱がひどく怒ったので、病と称して帰った。光祿丞として起用されたが、拱が吏部を掌ることになったのでまた病と称して避けた。
  • 萬厯の初め、しばしば遷って南京刑部右侍郎に至り、召されて工部左侍郎となり部事を摂した。御史の髙舉が、節甫はもとより進み出るのを渋る節操を持つ人であり、一年に三度も遷るのはよくないと言ったが、吏部は節甫に人望があるとしてその議を退けた。
  • 節甫は続けて疏を上げ、無駄な費用を省き、水増しの支出を洗い出し、造営を止め、江浙の織造を減らし、江西の磁器を停めるよう請うた。帝はそのために織造の数をやや減らした。中官の伝奉(正規の手続きを経ぬ任命)については節甫は不可として譲らず、疏でも述べた。また治河の策を献じたことがあり、その言は具体的で実行に堪えるものであった。
  • 父の喪で帰って卒し、右副都御史を贈られた。天啟の初め、㴶が政権を担っていたので端清の諡を賜わった。

入閣まで

  • 㴶は弟の演とともに萬厯二十年(1592年)の進士。㴶は庻吉士に改められ檢討を授かり、南京禮部侍郎まで累進して部事を掌った。
  • 西洋人の利瑪竇(マテオ・リッチ)が入貢の名目で南京に住み、その門徒の王豐肅らが天主教を唱えて士大夫の多くが帰依した。㴶は、陪都は人の集まる都会であり異教をここに置くべきでないと奏し、識者はその言を是とした。
  • しかし㴶はもとより時望に乏しく、大學士の從哲と同郷で仲が良かった。神宗の末年、從哲が独り国政を担って閣臣の補充を請い、会推せよとの詔が下ったとき、亓詩教らは從哲の意を汲んで何宗彦・劉一燝らを退け、㴶と史繼偕の名だけを上げたので、帝はこの二人を用いた。從哲の推薦によるものだと言う者もいた。
  • その疏はまだ発せられぬうちに、翌年神宗が崩じて光宗が立った。そこで㴶を禮部尚書兼東閣大學士として召したが、着任しないうちに光宗もまた崩じた。

魏忠賢との結託と弾劾

  • 天啟元年(1621年)六月、㴶はようやく着任した。故事として、詞臣は内書堂で教習し、教わった宦官は弟子の礼をとる。李進忠と劉朝はいずれも㴶の弟子であった。李進忠とは魏忠賢の初めの名である。
  • 㴶は着任すると密かにこの二人と結び、奏して、遼左で用兵が急なので、東陽・義烏の諸邑および揚州・淮安で材官・勇士二百余人を募った、勇士は錦衣衛に属させ、材官には相応の職を授けたいと述べた。進忠と朝はちょうど内操(宮中での軍事調練)を興したところだったので、㴶の奏を得て大いに喜び、錦衣官に募った者を訓練させ、材官の王應斗らに遊撃以下の官を授ける詔が出た。
  • 㴶はさらに、募兵に遅れて来た者が二百余人いるので遼東・四川の軍前に送りたいと奏し、詔で許された。まもなく太子太保を加えられ文淵閣に進み、さらに少保兼太子太保・戸部尚書・武英殿大學士に進んだ。
  • 禁中の内操は日ごとに盛んになった。駙馬都尉の王昺も詔を奉じて兵を募ったが、帷幄の重臣にその事を主宰させたいと願い出た。廷臣は皆、㴶が劉朝と密かに結んでいると言った。そこで給事中の恵世揚・周朝瑞らが㴶を弾劾し、表向きは募兵に事寄せて裏では内廷と通じている、劉朝の内操は㴶が門客をやって誘わせたもの、王昺の疏も㴶の教唆によるものではないか、宦官と外戚が輔臣と奸を通じて内外で兵を弄び、長安の一片の土地が戦場になろうとしていると述べた。
  • 㴶は疏で弁じ、病を理由に罷免を請うたが、帝は慰留した。世揚らはそこで㴶が内廷と通じている実状をことごとく暴いた。刑部尚書の王紀は重ねて二度の疏で㴶を弾劾し、蔡京になぞらえた。㴶もまた、紀が熊廷弼・佟卜年・劉一巘らをかばったと弾劾した。詔で両者を取りなした。
  • まもなく紀は卜年の獄の件で籍を削られ、議者はいよいよ㴶を白眼視した。大學士の葉向髙は、紀と㴶が攻め合ったのは双方とも大臣の体を失っている、しかし今、獄の審理を理由に紀を斥けては公論に対して何とするか、と述べ、朱國祚も自らの去就をかけて争ったが、帝はいずれも聴かなかった。
  • 㴶は身の置き所がなくなり、強く辞職を求めた。伝馬に乗せて帰らせよと命じられ、一年余りで卒した。太保を贈られ、諡は文定。
  • 㴶の弟の演は、工部主事から南京刑部尚書まで歴任した。

史論

  • 賛に曰く。神宗の朝は、時としては豫の卦、象としては蠱の卦にあたる。時行ら数人には、安楽に鳴いて凶を招く(鳴豫の凶)ところはあっても、乱れを立て直す(幹蠱)方略はなかった。外には清議を畏れ、内には君恩と寵を頼み、あいまいに身を守り、体裁を繕って名を取り、輔弼として和を成す働きは聞かれず、黙って事を避けるばかりであった。『書』に「股肱惰れば万事隳る」とある。これこそ孔子が「彼の相を用いて何とする」と嘆いた所以である。