明史卷二百十九 列傳第一百七 許國

入閣と言路との軋轢

  • 許國、字は維楨、歙縣の人。郷試第一で、嘉靖四十四年(1565年)の進士。庶吉士に改められ檢討を授かった。神宗が太子として出閣すると校書を兼ね、即位すると右贊善に進んで日講官を務め、禮部の左右侍郎を歴任し、吏部に改まって詹事府を掌った。
  • 萬厯十一年(1583年)四月、禮部尚書兼東閣大學士として機務に参与した。
  • 國は首輔の申時行と親しく、丁此呂の一件で言者たちと攻め合い、言葉が呉中行・趙用賢に及んだので、物議が沸き立った。やがて御史の陳性學がまた前の事を取り上げて國を弾劾した。時行は國の側に立ち、性學の処罰を軽くするよう請うた。國は重ねて疏を上げて辞職を求め、力を尽くして言者を攻撃した。帝が鴻臚に宣諭を命じて、ようやく出仕した。
  • 南京給事中の伍可受がまた國を弾劾したので、帝は可受の官を貶した。國はさらに三度疏を上げて休職を乞い、語気は激しかったが、帝は許さなかった。性學はまもなく広東僉事として外に出た。
  • これより先、帝が夀宫の地を占わせたとき、國に太子太保を加えて文淵閣に改め、雲南の功で太子太傅に進めた。國は父母がまだ葬られていないので帰って弔いを済ませたいと乞うたが、帝は許さず、その子を代わりに遣わせた。
  • 御史の馬象乾が中官の張鯨を弾劾して罪を得たとき、國が懇ろに救ったので、帝は怒りを収めてこれを受け入れた。
  • 萬厯十七年(1589年)、進士の薛敷教が吳時來を弾劾し、南京御史の王麟趾・黄仁榮が台諫の規を論じた疏は、いずれも言葉が國に及んだ。國は憤って疏を連ねて激しく非難し、あわせて主事の饒伸にも及んだ。伸はちょうど大學士の王錫爵を攻撃していたので、公議はますます國を是としなかった。
  • 國は性格が頑固で、事あるごとに感情を露わにし、たびたび言者と事を構えて大臣の度量がなかったので、士論は彼に付かなかった。

辺事・冊立と致仕

  • 翌年秋、浩爾齊が臨洮・鞏昌を侵し、西の辺境が動揺した。帝が輔臣を暖閣に召して意見を問うと、時行は和議と貢納で足りると言い、國は、盟を破って順を犯し驕慢が極まっている以上、一度大きく打撃を与えるべきで、もはや繋ぎ止める策は使えぬと述べた。帝の心は國の言を是としたが、時行が政を執っていたので覆せなかった。
  • まもなく給事中の任讓が國を凡庸で卑しいと論難した。國が疏で弁じると、帝は讓の俸を奪った。國と時行の間にはもともと確執はなかったが、時行がたまたま國の門生である萬國欽に論難されたことがあり、讓は時行の門生であったので、師のために報復したのだといわれる。
  • 福建の守臣が、日本が琉球と結んで侵入すると報じた。國はこれを機に、今四方の異民族が相次いで侵しているのに、内外の小臣が争って攻撃に努め、大臣が次々と辞職を求めている、これでは誰が国家のために働くのか、諸臣に各々職務に励みほしいままに振る舞わぬよう申し諭すべきだと述べた。帝はそこで詔を下して厳禁した。國が終始言者を憎み嫌ったのは、このようであった。
  • 廷臣が争って冊立を請い、萬厯二十年(1592年)の春に挙行するとの旨を得た。萬厯十九年(1591年)秋、工部郎の張有徳が儀注を請うと、帝は怒って俸を奪った。時行はたまたま休暇中で、國は王家屏とともに事が途中で変わることを恐れ、この機に成し遂げようとして前の旨を引いて強く請うた。帝は案の定不機嫌になり、大臣が小臣と結託すべきでないと責めた。國は身の置き所がなくなって辞職を求め、疏を五度上げて、ようやく敕を賜わり駅伝で帰ることになった。
  • ひと月余りで時行も罷められ、冊立は結局取りやめとなった。人々は、時行は弾劾によって去り、國は争ったことによって去ったとして、二人の宰相の優劣を評した。
  • 國は在閣九年、廉直で慎み深く身を守ったので、たびたび攻撃を受けても汚名を着せることはできなかった。卒して太保を贈られ、諡は文穆。