明史卷二百十七 列傳第一百五 沈鯉

字は仲化、歸徳の人である沈鯉(?–?、享年八十五)。師尚詔の乱では賊の再来を読んで守臣に備えを促し、郷里を救った。神宗が東宮にあったときの講官として深く重んじられ、禮部尚書として喪祭・冠婚から衣服までの中庸の制を定め、建文の年号の復活や景帝實錄の改定を請うた。中官や藩府の請託を一切退けたため讒言を受けて致仕したが、萬厯二十九年に東閣大學士として再び召され、沈一貫の妨害と妖書の獄の誣告に耐えながら、雨を冒して素服で奏する策や司禮太監陳矩を通じた進言によって、ついに礦税停止の命を引き出した。高淮・楊榮・梁永ら税使の横暴も次々に抑えたが、一貫が去るに際して道連れにされ、ともに致仕した。太師を贈られ、諡は文端。

年表(9件)

出自と師尚詔の乱

  • 沈鯉は字を仲化といい、歸徳の人。祖の瀚は建寧知府。鯉は嘉靖年間に郷試に及第した。
  • 師尚詔が乱を起こして歸徳を陥れ、やがて西へ去った。鯉は賊が必ず再び来ると読んで、急ぎ守臣に告げて城中の賊に内通した者を捕殺させ、厳重に守備を整えた。賊は戻って迫ったが、備えがあるのを見て去った。奸人が城を屠ると言いふらして住民を駆り立て掠奪しようとしたが、鯉が諭してやめさせるよう請い、人心はようやく落ち着いた。
  • 四十四年(1565年)に進士に及第し、庶吉士に改められ檢討に任じられた。大學士高拱は座主であり同郷でもあったが、公式の場で会う以外に私に謁したことはなかった。

神宗の講官として

  • 神宗が東宮にいたとき鯉は講官であった。かつて諸講官に扇へ書を書かせたとき、鯉は魏の卞蘭の太子頌を書いて進め、大義を陳べるよう命じられて詳しく説いた。神宗は嘆賞し、以来目をかけた。
  • 即位すると宮僚への恩により編修に進み、まもなく左贊善に進んだ。直講のたび挙措は端正で、その説くところはひとり帝の心にかない、帝はしきりに称えた。
  • 父母の喪に相次いで遭い、帝はたびたび「沈講官はどこにいるか」と問い、また喪の明ける時期を問い、先に講官に補してこれを待つよう命じた。萬厯九年(1581年)に帰朝したが、ちょうど講義を休む時期に当たっていたので、特に一日延ばして優遇を示した。
  • 翌年秋、侍講學士に抜擢され、再び遷って禮部右侍郎、ついで吏部に改まり左侍郎に進んだ。私交を絶ち、賢士を推挙するのを好んだが、本人には知らせなかった。
  • 十二年(1584年)冬、禮部尚書を拝した。六品を離れてわずか二年で正卿に至ったが、素より世の信望を負っていたので、時論は急すぎるとしなかった。久しくして會典が成り、太子少保を加えられた。
  • 鯉ははじめ翰林に官したとき、中官の黄錦が同郷のよしみで幣を贈って交わろうとしたが、拒んで受けなかった。内書堂の教習や講筵の侍講でしばしば大宦官と接したが、交わったことはなかった。官が高くなるほどいっそう容赦せず、上命であれ政府の指図であれ、曲げて従うことはなかった。

冊立と典礼

  • 十四年(1586年)春、貴妃鄭氏が子を生んで皇貴妃に進封されると、鯉は僚属を率いて皇長子を冊立しその母を進封するよう請うたが許されなかった。まもなく重ねて言上し、あわせて建儲を言って貶官された姜應麟らの寛宥を請い、旨に忤らって譴責された。帝は群臣の請いを退けたのち、詔で「二三年待て」と諭した。十六年(1588年)にその期が至ると、鯉は前の旨を執って固く請うたが、帝はまた従わなかった。
  • 鯉は素より剛直で、禮部にあって典礼を守り多くの建白をした。時俗の奢侈を憂え、先朝の典制を調べて、喪祭・冠婚・宮室・器物・衣服に至るまで中庸の制を定めて天下に頒った。また士人の風習が正しくないとして学政八事を奏行した。さらに建文の年号を復すること、景帝實錄を改定して「郕戾王」と称さないことを請うた。
  • 大同巡撫の胡來貢が北岳の祀を渾源に移すことを議したときは、その根拠が無いことを力めて論駁した。太廟の侑享では、親王および諸功臣を両廡に移して帝后と雑祀しないよう請うた。世廟の諸妃で金山に葬られた者を永陵に配食させた。諸帝の陵の祀にはそれぞれ官を遣わし兼摂させないよう請うた。諸王および妃の墳の祝版で称謂が適切でないものは、みな裁定を請うた。
  • 帝が旱を憂えて郊壇に歩いて祈り、大臣を分遣して天下の名山大川に祈らせようと議したとき、鯉は、使臣の往来で駅が騒がしくなり民を重ねて困らせると言い、三日斎戒して告文を太常の属官に授けて届けさせ、寺観での祈禱はやめるよう請うた。帝は多くその奏を可とした。

中官・藩府と対立す

  • 鄭貴妃の父の承憲が自分の父のために弔慰の恩典を請い、皇后の父の永年伯の例を援いたとき、鯉は力めて論駁し、詔で葬儀の資として五千金を与えることになったが、鯉はなお過分だと言った。
  • 順義王の妻の三娘子が封を請うたとき、鯉は妃号を与えず「夫人」と称するにとどめた。
  • 真人の張國祥が「肅皇(世宗)が国を長く享けられたのは、虔んで玄修を奉じられたからだ」と言って帝に倣うよう勧めると、鯉は國祥が誣いて阿諛に導いていると弾劾し刑罰を正すよう請うたが、事はやはり寝かされた。
  • 秦王の誼澏はもと中尉から入って封を継いだ者であるが、その弟を郡王に封ずるよう乞い、中官が取り成し、申時行も助けた。鯉は認めなかった。唐府が制に違えて妾の子の封を請うたときも、執って従わなかった。帝はいずれも特旨で許した。
  • 京師が長く旱したとき、鯉は民を恤む実際の政策を具さに陳べ、倹を崇め奢を戒めることを本とし、あわせて織造を減らすよう請うた。のち京師の地震では、天の戒めを謹み民の窮乏を恤むよう請うた。畿輔が大凶作になると、上下ともに修めるよう請い、言葉は極めて切実であった。帝が四方の災いによって廷臣に修省を命じたとき、鯉は宮廷の供費と造営を大いに減らして小民を振救するよう請うた。帝は毎に嘉納した。
  • はじめ藩府が奏請するときは中官に賄して仲立ちさせ、礼官も逆らえず思いどおりになっていたが、鯉に至って一切阻んだので、中官はみな大いに怨み、しばしば事にかこつけて帝に讒言した。帝は次第に疑いを抱かずにいられなくなり、たびたび詰責を加え、その俸を奪った。鯉はこれ以来去る意を持った。時行は鯉が自分に付かないのを恨み、やはり忌んだ。

致仕と再起

  • ある日、鯉が休暇を請うと、時行はただちに旨を擬して帰郷させようとした。帝は「沈尚書はよい官だ。なぜ去らせるのか」と言い、旨を伝えて留めた。時行はいよいよ忌んだ。その私人である給事中の陳與郊が、人のために考官の職を求めて得られず鯉を怨み、同官の陳尚象をけしかけて弾劾させた。與郊はさらに危うい言をもって鯉を揺さぶった。鯉は去ることをいよいよ強く求めた。
  • 帝は大いに用いる意があったが、鯉はひそかに「沈尚書は人の意を解さない」と言われた。年老いた宮人の甥で内豎(宦官)となっている者が走って鯉に告げ、司禮の張誠もまた鯉の同郷の内豎である廖某に託して密かに告げさせたが、鯉はいずれも拒み「禁中の話は聞くべきものではない」と言った。みな恨んで去った。鯉はついに屢々上疏し病を理由に帰郷した。たびたび内閣および吏部尚書に推されたが、いずれも用いられなかった。二十二年(1594年)南京禮部尚書に起用されたが、辞して就かなかった。
  • 二十九年(1601年)、趙志臯が没し、沈一貫が独り国政に当たった。廷推で閣臣が挙げられ、詔で鯉に旧官のまま東閣大學士を兼ねて機務に参ずるよう命じ、朱賡と並んで命ぜられた。屢々辞したが許されず、翌年七月にはじめて入朝した。時に年七十一であった。
  • 一貫は士人の心が素より鯉に付いているのを深く忌み、李三才に書を送って「歸徳公が来れば必ず私の位を奪う。どう備えたものか」と言った。鯉は歸徳の人であり、三才を通じて鯉に召命を辞退させようと風したのである。三才は返書で、鯉は忠実で他意が無いと言い、一貫に同心を勧めた。一貫はこれによって三才も併せて恨んだ。

妖書の獄と讒言

  • 鯉は着任するとすぐ、道中で見た礦税の害を具さに陳べ、後日また賡とともに上疏して論じたが、いずれも納れられなかった。
  • 楚の假王が告発された事が起こり、禮部侍郎の郭正域が取り調べを行うよう請うたとき、鯉はこれを是とした。奸人の撰した續憂危竑議が現れると、一貫らは事を大げさに騒ぎ立て、その党の錢夢臯に、正域は鯉の門生で妖言を共に作ったと誣奏させ、あわせて鯉の姦贓数事を織り上げた。帝はそれが誣であることを察して問わなかったが、一貫らは邏卒に日夜武器を執って鯉の邸を囲ませた。
  • やがて事が解けると、こんどは鯉が呪詛したと讒した。鯉はかつて小さな屏風を閣中に置き、天の戒めを謹むこと、民の窮乏を恤むこと、言路を開くこと、章奏を裁可して下すこと、大官を用いること、庶官を補うこと、廃棄された者を起こすこと、考選を挙行すること、冤獄を釈くこと、税使を撤すること、の十事を列記し、そのうえに「天啓聖聰、撥亂反治」の八字を書いて、閣に入るたび香を焚いて拝し祈っていた。讒する者はこれを呪詛だと指した。帝は取り寄せて見て「これがどうして呪詛か」と言った。讒者は「呪詛の語はもとより口には出さぬものです」と言った。幸い帝が鯉を深く知っていて信じなかった。
  • 先に、閣臣の奏掲は軽々しくは進めず、進めれば答えられないことは無かった。このころは内外が行き違い、奏掲は多くなり、寝かされて下されなかった。鯉は職を果たせないとして、たびたび病を引いて退こうとしたが、奨諭を加えられるばかりで、ついにその請いは行われなかった。
  • 三十二年(1604年)、皮林の功を叙して太子太保を加えられ、ついで任期満了により少保を加えられ文淵閣に改まった。

礦税の停止を導く

  • 鯉は宰相となった当初から礦税の撤廃を請い、在位数年、しばしばこれを言った。
  • 孝陵の明樓が火災に遭ったとき、鯉は一貫・賡に、それぞれ奏を作って時を待って上げようと言った。ある日大雨になり、鯉は「よし」と言った。二人が理由を問うと、鯉は「帝は礦税の事を言われるのを嫌い、疏が入っても多くは御覧にならない。いま我々が雨を冒して素服で文華殿に詣って奏すれば、上は訝しんで取って読まれよう。これも一つの機会だ」と言った。二人はその言に従った。帝は疏を得て「必ず急な事があるのだ」と言い、開いて見て果たして心を動かした。しかし罷めるには至らなかった。
  • 翌年の冬至、一貫は休暇中で、鯉と賡が仁徳門で賀を謁した。帝は食を賜り、司禮太監の陳矩が侍り、小宦官が幾度も往き来して立ち聞きし、筆を執って控えていた。鯉はそこで礦税が民を害する状を極言し、矩も憂え顔になった。鯉はさらに進んで「礦使が出て天下の名山大川を破壊し、霊気は尽き果てました。聖躬に不利であることを恐れます」と言った。矩は嘆息して還り、具さに帝に語った。
  • 帝は悚然として矩を遣わし、鯉に補い救う道を諮らせた。鯉は「他に道はありません。急ぎ開鑿を停めれば霊気は自ずと復します」と言った。帝は聞いてうなずいた。一貫は鯉が独り功を収めることを慮り、急ぎ疏を草して上げた。帝は不快でまた止めたが、ひと月を越えて果たして礦を停める命が下った。鯉の力である。
  • 鯉は事に当たって正を執り撓まなかったが、一貫に圧せられて志を尽くせなかった。しかしこの時期、一貫はたびたび論じられて病を引き門を閉じたので、鯉はようやく閣の事を行えた。

閣事と致仕

  • 皇孫が生まれ詔で天下を赦したとき、中官が茶・蠟の未納分の徴収を請うた。鯉は詔旨に背くとして二度執奏し、ついに沙汰やみとなった。
  • 帝の乳母の翊聖夫人金氏は、その夫が都督同知で没したので甥に継がせることを請うたが、鯉は都督は世襲の官ではないと言い、やんだ。
  • 真人の張國祥は、皇孫の誕生にはすでに祈禱の功があると称して三代の誥命と詹事主簿の世襲を乞うたが、鯉は力めてその誤りを斥け、金幣を賜るにとどめられた。
  • 帝が中官の言に惑わされて畿輔の牧地を調査させようとし、鯉に勅を撰するよう諭したとき、鯉は「近年、あらゆる利の源はことごとく朝廷に囲い込まれ、常に勢いが極まって変を生ずるのを恐れます。まして牧地に本当に豪族が隠し占めた未課税の新墾地がありましょうか。奸民の言い伝えは深く信ずるに足りません」と言い、そこで止んだ。
  • 雲南の武弁が税使の楊榮を殺し、帝がひどく怒って官を遣わし処断させようとしたとき、鯉は榮の罪状を具さに陳べ、榮を殺した首謀者を誅してその他は赦すよう請い、逮捕は行われなかった。
  • 陝西の税使梁永が鎮守の事を領することを求めたのも、鯉の言によって罷められた。遼東の税使高淮が進貢の名を借りて統率する練甲を率いて国門に至ったときは、鯉が夜半に密奏してその不可を言い、詔で淮を責めて止めさせた。
  • 当時、一貫は病と称して門を閉じていたが、章奏の多くはその家で旨を擬していた。鯉は旧例に反すると力言した。
  • 鯉はすでに一貫に忤らうことが積もっていた。一貫は去るにあたり、鯉が残れば後の憂いになると慮り、ともに去らせようとしてひそかに陥れた。帝もまた鯉の剛直を嫌っていたので、鯉が休職を乞うたのに乗じて、にわかに一貫とともに致仕せよと命じた。賡が上疏して鯉を留めるよう乞うたが、返答は無かった。
  • 家に着いてから疏で謝したが、なお怠政の弊を極言し、明察と実行をもって規諫とした。八十歳のとき官を遣わして安否を問い銀と幣を賜り、鯉は奏して謝し、あらためて時政の要務を陳べた。さらに五年して没した。年八十五。太師を贈られ、文端と諡された。