明史卷二百十七 列傳第一百五 陳于陛

出自と昇進

  • 陳于陛は字を元忠といい、大學士陳以勤の子である。隆慶二年(1568年)の進士、庶吉士に選ばれ編修に任じられた。萬厯の初め、世宗・穆宗両朝の實錄の修撰に加わり、日講官を務めた。
  • たびたび遷って侍講學士、詹事に抜擢されて翰林院を掌り、早く東宮を建てるよう上疏して請うた。
  • 十九年(1591年)、禮部右侍郎を拝して詹事府の事を領した。翌年、吏部に改まって左侍郎に進み、庶吉士の教習に当たった。元子を王に封ずるべきでなく、時を逸せず冊立して豫め教えるべきだと奏言し、また早朝と勤政を請うたが、いずれも返答は無かった。さらに翌年、禮部尚書に進み、なお詹事府の事を領した。

本朝の正史編纂を請う

  • 于陛は若いころ父の以勤から国家の故実を習い、史官となってさらに経世の学を究めた。前代がみな国史を修めたことから上疏して言った。
  • 臣が史家の法を考えるに、紀・表・志・傳を正史という。宋は我が朝に近く、その制度はとりわけ考えるに足りる。真宗の祥符年間に王旦らが太祖・太宗両朝の正史を撰進し、仁宗の天聖年間に吕夷簡らが真宗朝を加えて三朝國史と名づけた。これは本朝の君臣が自ら本朝の正史を修めた明証である。
  • 我が朝の史籍は列聖の實錄があるだけで、正史は欠けたまま論じられていない。朝野が撰述して採択に備えうるものはおよそ数百種にのぼる。いま時を逸して網羅しなければ、歳月は隔たり、巻帙は散り失せ、古老は次第に亡くなり、事跡の拠りどころは乏しくなって、信ずべき史を成そうとしてもできなくなる。
  • 願わくは陛下が明詔を下し、局を設けて編輯させ、一代の経制・典章がはっきり考えられ、鴻謨・偉烈が天地に輝くようにされたい。万世不朽の盛事ではないか、と。詔で従われた。
  • 二十二年(1594年)三月、そこで詞臣に部署を分けて類纂させ、于陛と尚書の沈一貫・少詹事の馮琦を副總裁とし、閣臣が総裁とした。

入閣と晩年

  • その年の夏、首輔の王錫爵が政を辞したので、于陛に東閣大學士を兼ねて機務に参ずるよう命じた。
  • 上疏して、大臣に親しむこと、遺賢を録すること、外官を奨めること、辺境の軍糧を精査すること、将才を蓄えること、辺境の官吏を択ぶことの六事を陳べ、末尾に「肅皇帝の精明をもってしても末年に貪欲がはびこり辺境に事が多かったのは、勤めることに倦まれたからである。いま至尊は手を拱いておられ、百職は修まらない。速やかに更始を図らなければ、この先どこまで行き着くのか」と言った。帝は手厚い詔で答えたが、用いることはできなかった。
  • 帝が軍政の失察により言官三十余人を減俸・降格したとき、于陛は同官とともに二度救済を申し立て、さらに単独で上疏して寛宥を請うたが、いずれも納れられなかった。
  • 甘肅で賊を破った功により太子少保を加えられた。二十四年(1596年)、両宮の火災に際して面対を請うたが返答は無く、罷免を乞うたがそれも許されなかった。その秋、二品三年の任期満了により文淵閣に改まり、太子太保に進んだ。
  • 当時、内閣は四人で、趙志臯・張位・沈一貫はみな于陛と同年の及第者であり、事に当たって齟齬は無かった。しかし帝が諫を拒むことはいよいよ甚だしく上下は隔たり、于陛は憂いを顔に表し、補い救えないことから直廬でたびたび嘆息して日影を見つめるばかりであった。
  • 十二月、その職に在って病没した。正史の編纂もついに罷められた。少保を贈られ、文憲と諡された。明一代を通じて父子で宰輔となったのは南充の陳氏だけで、世に漢の韋氏・平氏になぞらえた。