明史卷二百十六 列傳第一百四 公鼐

光宗實録を別に編むことを請う

  • 公鼐は字を孝與といい、䝉隂の人。曽祖の奎躋は湖廣副使、父の家臣は翰林編修。鼐は萬厯二十九年(1601年)の進士、庶吉士に改められ、編修に任じられた。たびたび遷って左諭徳となり東宮の講官を務め、左庶子に進んで病を理由に帰郷した。
  • 光宗が立つと召されて祭酒を拝した。熹宗が鼐を詹事に進めると、上疏して言った。
  • 近ごろ南北の臣僚が先帝の崩御の一事を語るのを聞くと、跡は怪異にわたり、言葉は隠しごとが多い。巷の誤った伝聞が湘山野録のような稗史の説になってしまうのを恐れ、臣はひそかに心を痛めている。
  • 皇祖にはもともと愛する子を立てるお心は無かった。ただ大典が遅れたために、冊立の詔を返上させた後には三王並封の事があり、憂危竑議の後には国本に関わる事があった。龎・劉の邪謀、張差の梃撃に至って逆乱は極まった。
  • 臣はかつて東宮の僚属に列して、狂謀の盛んなさまを目のあたりにした。東宮に心を寄せる者を小人とし、寄せない者を君子とし、朝士の清流をことごとく除き、ひそかに元良(皇太子)の羽翼を剪り、根を掘り蔓を引いて綱紀を乱した。いま思い返してもなお寒心する。
  • そもそも臣子が君を愛するのは、その真実を残すためであって偽りを残すためではない。いま實録の編纂が目前である。願わくは光宗の事蹟を別に一録とし、ひと月のあいだの詔令と善政はもとより大書特書し、聞見に異説があるものや宮中の込み入った事情の妙用についても、みな直筆で指し示し、信ずべき史書に仕上げたい。臣は不肖ながら、あえてその任に当たりたい、と。疏が入ったが許されなかった。
  • 天啓元年(1621年)、鼐は、改元してわずか半年で譴責を受けた言官が十余人に及んだことから、上疏して切に諫め、あわせて輔臣を諷刺したので、旨に忤らって譴責された。
  • ついで禮部右侍郎に遷り詹事府を協理し、實録の副總裁を務めた。鼐は学を好み博識で、磊落として器識があった。魏忠賢が政を乱すのを見て、病と称して帰郷した。
  • はじめ廷議で李三才の起用が決しなかったとき、鼐は声を大にして「いま辺境を託すべき者の多くは遠方にいてまだ着任していない。三才は謀略がもともと優れ、家は都に近く、朝に発てば夕には至れる」と言った。侍郎の鄒元標が思うところを尽くすよう促したが、言路の反対で押しとどめられた。
  • のち御史の葉有聲が、鼐と三才は姻戚であり私情で妄りに推薦したと追及し、ついに職を落とされて閑居した。まもなく没した。崇禎の初め、官を復され弔慰を賜り、文介と諡された。