明史卷二百十六 列傳第一百四 羅喻義

軍務への献策

  • 羅喻義は字を湘中といい、益陽の人。萬厯四十一年(1613年)の進士、庶吉士に改められ、檢討に任じられ、休暇を請うて帰郷した。
  • 天啓の初めに帰朝し、諭徳を歴任して経筵に侍った。六年(1626年)、南京國子祭酒に抜擢された。諸生が魏忠賢のために生祠を建てようとしたとき、喻義が言い出した者を懲らしめてやめさせた。忠賢の一党が東林の本貫別の名簿を作ったとき、湖廣二十人の筆頭が喻義であった。
  • 莊烈帝が位を継ぐと召されて禮部右侍郎兼詹事府協理を拝し、ついで日講官を務め、庶吉士の教習に当たった。
  • 喻義は性質が厳しく冷やかで、戸を閉じて読書し、軽々しく客に会わなかった。のちに内外に事変が多く、将吏が兵事に習熟していないのを見て、鋭意武事を講じ、陣図を推演して献じ、帝は褒めて受け入れた。
  • 折しも兵を用いているのに督撫の大吏が軍府を設けず財用のあてが無いことから、武には七徳があり財を豊かにするのがその一つである、正規の軍糧のほかに別に軍府を設け、朝廷は関知せず、士を饗し功を賞し敵を買収する費用はすべてそこから出すべきだ、と言った。さらに車戦の利を極言した。
  • 帝は軍府の議を所管に下し、喻義に自ら戦車を作らせた。喻義はあらためて畝ごとの加派(増税)の害を上言し、戦車の製造は有司の職掌であるとして詔を奉じようとしなかった。帝は不快となり、疏はそのまま行われなかった。

溫體仁との衝突と罷免

  • 四年(崇禎四年、1631年)九月、尚書を進講し、「布昭聖武」の講義を撰したが、その中で時事に触れ「左右にある者がその人を得ていない」という語があり、執政をかなり傷つけた。末尾には祖宗の大閲の規と京營の制を陳べ、何らかの改革を望んだ。
  • 草稿を政府に呈すると、溫體仁は不快に思い、正字官をやって喻義に改めさせようとした。喻義は内閣の隔ての扉のところまで行って體仁をあざけった。
  • 體仁は怒って上言した。旧例では経筵のみが規諫を多くして正講を少なくし、日講は正講を多くし規諫を少なくするものである。いま喻義は日講でありながら経筵の体裁を用い、削除を命じたところ、かえって侮辱を受けた。聖明の御裁断を仰ぐ、と。そこで吏部の議に下された。
  • 喻義は弁明して奏した。講官が本文のほかに時事に触れるのも旧制である。臣はあれこれ意を尽くして陳べ、少しでも益することを願ったのに、體仁は削り去った。臣はまことに愚忠が上達せず輔臣に忤らうことを恐れる。いま草稿はそのまま在る。聖明の御一覧を望む、と。
  • 吏部は體仁の意を迎えて革職・閑住を議し、裁可された。喻義はふだんから世の信望を負っていたが、體仁に倒され、士論はこぞって惜しんだ。出立に際して恩を乞い駅伝の車を請うと、帝はこれも許した。家に居ること十年で没した。