明史卷二百十六 列傳第一百四 蔡毅中

出自と沈一貫との軋轢

  • 蔡毅中は字を宏甫といい、光山の人。祖の鳯翹は平陽同知、父の光は臨洮同知。毅中は五歳で孝經に通じ、父が読書は何のためかと問うと「聖賢になりたいのです」と答えた。
  • 萬厯二十九年(1601年)に進士に及第、庶吉士に改められ、檢討に任じられた。当時、礦税が民を虐げていたので、毅中は祖訓・㑹典などの書から礦税を禁戒する条文を集めて二巻とし、注釈を付けて奏上した。
  • 大學士沈鯉は毅中にとって郷里の先輩であり、首輔の沈一貫と折り合いが悪かった。また溫純は河南參政のころ諸生であった毅中を高く買っており、このとき都御史となって一貫を非難する疏を上げた。一貫は、それが毅中の手になり鯉のために地歩を作るものだと疑って恨み、ついに勤務評定を利用して秩を落として去らせた。
  • 麻城の丞に起用され、まもなく行人司副として召され、尚寶丞に抜擢されたが、病と称して帰郷した。四十五年(1617年)、「浮躁」として秩を落とされた。

魏忠賢を論ずる

  • 天啓の初め、罷免された者が大挙して起用され、長蘆鹽運判官に補され、たびたび遷って國子祭酒となり、禮部右侍郎に抜擢されて祭酒の事を兼領した。
  • 楊漣が魏忠賢を弾劾して厳しい旨を受けると、毅中は属僚を率いて抗議の上疏をした。
  • 学校は天下の公議が出るところである。臣がちょうど諸生と「為君難」の一書を講じていたとき、たまたま楊漣の忠賢弾劾の疏に接し、監(國子監)の師生千余人は残らず手を打って慶んだ。ところが皇上はその奏を九卿に下されず、一切の朝政はみな親裁していると仰せられ、奸璫を忠と見なして代わりに責めを負わせておられる。監の師生は残らず胸に手を当てて嘆息が已まない。
  • 三代以後、漢・隋・唐・宋の諸君が権璫(権力を握った宦官)の害を受けたことと、権璫を処置した方法は通鑑に載り、我が朝の列聖のそれは實録に載っている。臣は多言を要さない。ただもっとも近くもっとも身近な例、武宗が劉瑾を処置し、神宗が馮保を処置した二事を取り、皇上がこれに遵われることを願う。
  • 瑾は武宗の左右にあって言うことは聴かれ計は用いられたが、諸臣の弾劾を一度聞くや、武宗は夜半に自ら起きて捕らえ殺した。神宗が位に臨まれたのは十歳のとき、保は左右で扶け助けて心力を尽くしたが、やがて少しく威福をほしいままにした。台諫の弾劾があっても、朝廷を挙げての連名の疏は聞かれないうちに、神祖は声色も動かさず保を南京に流された。
  • いま忠賢には保のような功が無く、瑾の悪を極めている。二十四の罪はどれ一つとして残らず糾明すべきでないものは無い。朝廷を挙げて群臣が朝の退出後に跪いて旨を待とうとすると、忠賢は皇上を宮中へ引き入れて群臣を礼遇させなかった。いままた視学の日に群臣と太學の諸生が直訴しようとしているのに、皇上はまるで意に介されない。この数日、忠賢に関わるものはすべて宮中に留めて下されない。これほど覆い隠されるのは、その内実が測りがたいということではないか。
  • 願わくは漣の疏を九卿・科道に下して公正に糾明され、劉瑾のような誅を加えないまでも馮保の処置の法で懲らされたい。さすれば恩と威がともに立ち、神祖と美を並べることになろう、と。
  • 疏が入ると忠賢は手を振り上げて大いに罵った。毅中は再び上疏して帰郷を乞うたが許されず、まもなく忠賢がその一党をけしかけて弾劾させ罷免した。
  • 毅中は至情の人で、四歳のとき父が病むと天に祈って身代わりを願った。上京の途上で母の喪を聞き、ひとしきり慟哭して数升の血を吐いた。喪が終わるまで酒肉を断ち、内寝に入らなかった。母の病のとき、盛夏に氷を欲したところ、鉢の水が急に凍った。廬に籠もっているあいだ、紫芝が生え、白い烏や千羽の鴉が墓に集まるという異があった。没後、禮部尚書を贈られた。