明史卷二百十六 列傳第一百四 李騰芳

三王並封を諫む

  • 李騰芳は字を子實といい、湘潭の人。萬厯二十年(1592年)の進士、庶吉士に改められ、学を好み才名を負った。
  • 三王並封の旨が下ると、騰芳は書を作って朝房に赴き大學士王錫爵に投じた。おおよそ次のように言う。あなたは一時的に上意を承け、王に封ずるのを巧みに借りて冊立に転じようとしておられる。しかし王の封がひとたび定まれば大典はいよいよ遅れ、他日あなたが去って事が壊れたとき、あなたが発案者だと責められて何と弁解されるのか。これは宗社の憂いであるだけでなく、あなたの子孫の禍でもある、と。
  • 錫爵は読み終えないうちに衣を引いて座らせ、「人々は私を罵るが、私はどう身の証を立てればよいのか。君の言うとおりなら私は教えを受けよう。ただ私の疏は必ず自筆で書く。子孫の禍とはどういうことか」と言った。
  • 騰芳は「外朝はまさに、あなたが自筆の密揭で事を運ぶために詳細を知る手立てが無いと申しております。それを盾に弁明されるとして、他日、天子にあなたの自筆を天下に示させることができますか」と答えた。錫爵は茫然として涙を流し、翌日ついに並封の詔を撤回した。
  • たびたび遷って左諭徳となった。騰芳は崑山の顧天埈と親しかったが、天埈は陰険で行いが悪く世に名指しされ、弾劾されて去った。騰芳もまた自ら弾劾を求めて帰郷した。そこで「顧黨」「李黨」という呼び名が生じた。
  • 詔で朝士のうち勝手に去った者の罪を論じ、騰芳は太常博士に貶された。三十九年(1611年)の京察でさらに「浮躁」として江西都司理問に謫された。
  • やや進んで行人司正となり、太常少卿として司業の事を掌った。光宗が立つと少詹事に抜擢され、南京翰林院を署し、まもなく禮部右侍郎を拝して庶吉士の教習に当たった。御史の王安舜が騰芳の急な昇進を弾劾し、騰芳は上疏して辞任を願ったが許されず、結局、母を見舞うため帰郷した。
  • 天啓の初め、旧官のまま詹事府を協理し、ついで吏部左侍郎に改まった。母の喪に遭い、禮部尚書を加えられて帰った。
  • 魏忠賢は騰芳が楊漣と同郷であるのを憎み、御史の王際逵が、騰芳は考察に引っかかりながら急に起用され、喪中に官を進めたのはいずれも制度に反すると論じ、ついに官爵を削られた。
  • 崇禎の初め、再び尚書として詹事府を協理した。京師が戒厳となると防禦の方策を条陳し、多くが旨に適った。何如寵に代わって部の事を掌り、官にあるまま没した。太子太保を贈られた。