明史卷二百十六 列傳第一百四 唐文獻

妖書の獄で郭正域を救う

  • 唐文獻は字を元徴といい、華亭の人。萬厯十四年(1586年)の進士第一で修撰に任じられ、詹事を歴任した。
  • 沈一貫が妖書の事によって侍郎の郭正域を陥れようと厳しく追及したとき、文獻は同僚の楊道賔・周如砥・陶望齡とともに一貫を訪ね、「郭公は助かりそうにありません。世間はあなたが本気で殺そうとしていると申しております」と言った。一貫は身を縮めて地に酒を注ぎ、誓うようなしぐさをした。文獻は「あなたに殺す意志が無いのは分かっております。ただ台諫が風を承けて石を落としているのに、あなたがこの獄を早く終わらせなければ、何と言って天下に詫びるおつもりですか」と言った。一貫は容を改めて謝した。
  • 望齡も朱賡が救おうとしないのを見て、色を正して大義をもって責め、官を捨てて正域とともに死にたいと願い出た。獄はようやく緩んだ。しかし文獻らはこれによって政府の意に沿わなくなった。
  • 久しくして禮部右侍郎を拝し、翰林院の事を掌った。
  • はじめ文獻は趙用賢の門から出て、名節をもって互いに励んだ。同年の及第者である給事中の李沂が張鯨を弾劾して廷杖を受けたとき、文獻は助け出して湯薬の費用を出してやった。荆州推官の華鈺が税監に忤らって詔獄に下されたときも、文獻は力を尽くして周旋し死を免れさせた。
  • 翰林を掌っていた日に考察に当たり、執政がある一人をかばおうとしたが、頑として許さなかった。官にあるまま没し、禮部尚書を贈られ、文恪と諡された。

楊道賔――附伝

  • 楊道賔は字を惟彦といい、晉江の人。萬厯十四年(1586年)の進士第二で編修に任じられ、たびたび遷って國子祭酒・少詹事・禮部右侍郎として翰林院の事を掌り、左侍郎に転じ、改めて部の事を掌った。
  • かつて星の異変に際して、捕らえられていた知縣の滿朝薦らの釈放を請い、また朝講の大典を速やかに挙行するよう請うたが、いずれも返答は無かった。
  • 南京の大水のとき、時政を陳べて上疏し、およそ次のように言った。宮中では夜半にようやく寝み、日が高くなっても起きられず、万機がおろそかになっている。早く起き遅く寝んで治功を図られたい。時に便殿に出御して大臣と面と向かって大政を決し、章疏はその都度批答され、宮中に留め置いたり内旨で下したりされないように、と。帝は手厚い旨で聞き置いた。
  • 皇太子の講義が中断してすでに四年になっていたので、道賔は極言して諫め、唐の宦官仇士良の言葉を引いて戒めとした。
  • その冬、天鼓が鳴った(雷鳴のような天の異変)。道賔は、天の視聴は民にある、いま民の暮らしはつまずき訴える先も無いので、天が代わって鳴っているのだ、急ぎ礦使を罷め欠けた政を改めて民心を和らげるべきだ、と言った。帝は聴かなかった。
  • 一年余りして官にあるまま没し、禮部尚書を贈られ、文恪と諡された。

陶望齡――附伝

  • 陶望齡は字を周望といい、㑹稽の人。父の承學は南京禮部尚書。望齡は若くして文名があり、萬厯十七年(1589年)の会試首席、殿試一甲第三で及第し、編修に任じられ、官は國子祭酒を歴任した。
  • 王守仁の説を深く好み、宗としたのは周汝登である。弟の奭齡とともに講学で名があった。没後、文簡と諡された。