明史卷二百十六 列傳第一百四 王圖

出自と秦黨の目

  • 王圖は字を則之といい、耀州の人。萬厯十一年(1583年)の進士、庶吉士に改められ、檢討に任じられた。右中允として南京翰林院の事を掌り、召されて東宮の講官を務めた。
  • 妖書の事が起こり、沈一貫が人を陥れようとしたとき、圖は一貫の教習を受けた門生であったので、思うところを尽くして諫めた。
  • たびたび遷って詹事となり、日講官を務め、庶吉士の教習に当たり、吏部右侍郎に進んで翰林院を掌った。兄の國はちょうど保定を巡撫していた。
  • 東林や李三才に与する廷臣はしばしば圖の兄弟を推した。折しも孫丕揚が起用されて吏部を掌り、孫瑋が尚書として倉場を督したが、いずれも陝西の人であったので、圖を快く思わない者たちは「秦黨」と呼んだ。
  • 当時、郭正域・劉曰寧と圖とがともに宰相の呼び声があったが、正域は追われて去り、曰寧は没したので、世論はいよいよ圖に帰した。葉向髙が長く独り宰相であったから、圖は朝夕にも入閣するとみられ、忌む者はいっそう増えた。

京察をめぐる争い

  • ちょうど京察(官吏の勤務評定)が行われようとしたとき、東林や李三才・王元翰を憎む者が言葉を構えて丕揚を惑わし、名簿を配って是非を諮らせ、ひそかに党人狩りを企てた。圖は急いで丕揚に説いてこれを止めさせ、小人どもは大いに恨んだ。
  • はじめ圖は庚戌(萬厯三十八年、1610年)の会試を主宰した。分校官の湯賔尹が韓敬を私しようとして、知貢舉の呉道南と激しく罵り合った。試験場を出たあと、道南は賔尹を弾劾しようとしたが、圖が押しとどめてやめた。
  • 王紹徽は圖と同郡の人で賔尹の門生である。圖に対して賔尹を大いに褒め、「道南の一派は賔尹を倒そうとしており、あなたにも及ぶ。うまく計られよ」と言った。圖は色を正して退け、紹徽は憤然として去った。
  • 当時、賔尹はすでに祭酒となっていたが、以前は翰林を歴任していたので、京察では圖が考課を記すことになる。先手を打って倒そうと考え、紹徽と謀って、御史の金明時に、圖の子である寶坻知縣の淑抃が巨万の贓を私したと弾劾させ、さらに、國はもともと李三才を憎んでいたのに圖がとりなしを求めたので國が怒って罵ったのだと言わせた。圖はそこで拾遺(自ら弾劾を引いて退くこと)によって去ろうとした。
  • 國と圖の兄弟は上章して力争した。忌む者はさらに淑抃が國を弾劾したという偽の疏を作って邸報に流した。圖が上疏して事情を述べると、帝は詔を下して犯人を懸賞捜索させ、ようやく止んだ。
  • 考察に至って結局、賔尹を「不謹」と記して官を剥ぎ、明時も黜けられた。これによってその一党は大いに騒ぎ、秦聚奎・朱一桂・鄭繼芳・徐兆魁・髙節・王萬祚・曽陳易らが続けざまに圖を攻撃した。
  • 圖もまた続けて辞職を願い、郊外に出て命を待った。温情ある詔でたびたび慰留されたが、堅く臥して起たず、九か月を経てようやく休暇を賜って帰郷した。國もまた引退を乞うて去り、まもなく没した。
  • 四十五年(1617年)の京察では当事者の多くが賔尹・紹徽の一党で、拾遺によって圖の職を落とした。
  • 天啓三年(1623年)、旧官に召し起こされ、禮部尚書に進んで詹事府を協理した。翌年(1624年)、魏忠賢の一党である劉𢎞先が圗を弾劾し、ついに籍を削られ、まもなく没した。崇禎の初め、太子太保を贈られ、文肅と諡された。
  • 淑抃は戸部即中(郎中の誤りか)で終わった。

劉曰寧――附伝

  • 劉曰寧は字を幼安といい、南昌の人。萬厯十七年(1589年)の進士、庶吉士に改められ、編修に任じられ、右中允に進んで皇長子の講席に侍った。
  • 当時、冊立がまだ行われず外部の議論は紛糾していたが、曰寧はかたわらから慰め、こまやかに諭し、仁孝の道に依らせたので、光宗は心にとどめた。
  • 礦使が四方に出ると、曰寧は憤って上疏し、六つの疑いと四つの患いを陳べ、税監の李道・王朝らの不法を極言したが、疏は宮中に留め置かれた。
  • 母の病により帰郷。右諭徳として南京翰林院を掌り、そのまま國子祭酒に遷った。母を奉じて帰るとき、属吏が余った金数千を「慣例です」と差し出したが、曰寧は厳しく退けた。
  • ついで少詹事に起用されたが、母の喪のため赴かず、喪が明けて禮部右侍郎兼詹事府協理に召されたが、途上で没した。禮部尚書を贈られ、天啓の初め、文簡と追諡された。