出自と八箴
- 翁正春は字を兆震といい、侯官の人。萬厯年間に龍溪の教諭となり、二十年(1592年)に進士第一で抜擢され、修撰に任じられ、たびたび遷って少詹事となった。
- 三十八年(1610年)九月、禮部左侍郎を拝し、呉道南に代わって部の事を署した。十一月に日食があり、正春は政治の欠失を極言したが返答は無かった。
- 翌年(1611年)秋の万寿節に、正春は八箴を献じた。君心を清くすること、祖制に遵うこと、國紀を振るうこと、臣僚を信ずること、賢才を宝とすること、財用を謹むこと、民命を恤むこと、辺防を重んずることである。帝は省みなかった。
礼制の裁定
- 吉王翊鑾が支子の常源を郡王に封ずるよう請うたとき、正春は、翊鑾の封は宗藩の要例が定まった後のことだから、その支庶は本来の爵にとどめるべきだと論じ、鎮國將軍を授けることとなった。
- 王貴妃が薨じてから長く葬地が卜されなかったので、正春がこれを言上し、中官とともに赴いて地を択ばせ、吉地を得た。中官が費用がかさむと難色を示すと、正春は色をなして「貴妃は元良(皇太子)を産まれた方で、他日の国母である。どうして天下をもって出し惜しみするのか」と言った。奏上して裁可された。
- 代王が長子の鼎渭を廃して次子の鼎莎を立てようとし、朝議は二十余年もこじれていた。正春が衆議をまとめて上疏し、鼎渭がついに立てられた。
- 琉球中山王が使者を遣わして入貢したとき、正春は、中山はすでに倭の手に入っており、いま使臣の多くは倭人、貢物の多くは倭器であるから、断つのがよい、そうしないとしても福建の撫臣に詔して土産の品を適宜留めさせ、入朝させないようにすべきだと言い、帝は是とした。
科場の事と晩年
- 四十年(1612年)、進士の鄒之麟が郷試の分校官となり、受験生の童學賢を私したことが御史馬孟禎らに摘発された。正春は學賢を黜け之麟を謫することを議したが、主考官には及ばなかった。給事中の趙興邦・元詩教はこれをとらえて正春が私情を用いたと弾劾し、正春は辞職を求めたが許されなかった。
- ほどなく言官が湯賔尹・韓敬の科場の件を暴くと、正春は敬を「不謹」としたことで敬の一党の恨みを買い、詩教は再び正春を弾劾した。正春は疏で弁明し、いよいよ辞職を求めた。帝は慰留したが、これ以後その地位に安んじなかった。
- ついで吏部に移って詹事府を掌り、親の扶養を理由に帰郷した。
- 天啓元年(1621年)、禮部尚書兼詹事府協理に起用されたが、抗論して魏忠賢に忤らい、旨を受けて譴責された。翌年(1622年)、御史の趙䕃昌が意を迎えて弾劾し、正春は再び上疏して帰郷を乞うた。帝は正春がかつて皇祖の講官であったことから、特に太子少保を加え、勅を賜って駅伝で帰らせた。異例の待遇である。
- そのとき正春は七十を過ぎ、母は百歳であった。子孫を率いて杯を捧げて長寿を祝い、郷里の人々はこれを羨んだ。まもなく没した。崇禎の初め、文簡と諡された。
- 正春は風采が厳正で、終日くだけた言葉を口にせず、疲れても身をもたせかけず、暑くても肌を出さず、目をきょろきょろさせず、見る者は襟を正した。明一代の科目・職官を通じて、教職から殿試の首席に立ったのは二人、曹鼐は典史から、正春は教諭からであるという。