明史卷二百十六 列傳第一百四 馮𤦺
字は用韞、臨朐の人である馮𤦺。幼くして人並みはずれて聡明で、十九歳で進士となり、㑹典の修撰に加わって侍講・日講官を務めた。三王並封の議には王錫爵に書を送って力争し、吏部では猟官運動を強く抑えた。狄道の山崩れに際しては尚書の李戴とともに上奏し、賦の増加と礦税使・中使の横暴が民を追い詰めている実情を列挙して、天変は民心の離反の徴であると説いた。禮部尚書としても礦税の停止と諸税監の召還を繰り返し請い、東宮冊立の費用が不足したときは弟が運ぶ餉銀を追いかけて呼び戻し礼を成立させた。内閣に擬されながら沈一貫に阻まれ、病篤く十六度の辞職を許されぬまま四十六歳で官に没した。太子少保を贈られ、天啓の初めに文敏と諡された。附伝に代々進士を出した臨朐馮氏の一族がある。
年表(4件)
- 萬厯五年1577年十九歳で進士となり、庶吉士に改められて編修に任じられる
- 萬厯二十七年1599年九月、狄道の山崩れに際し、礦税と中使の害を挙げて上奏する
- 萬厯三十年1602年礦税停止の諭を悔いた帝に連名で争い、郊廟の親祭と臨朝を請う
- 萬厯元年1573年一族の馮子咸が郷試に及第し、のち濂洛の学を講求する
出自と昇進
- 馮𤦺は字を用韞といい、臨朐の人。幼くして人並みはずれて聡明で、十九歳の萬厯五年(1577年)に進士となり、庶吉士に改められ、編修に任じられた。㑹典の修撰に加わってこれが成り、侍講に進み、日講官を務め、庶子を歴任した。
- 三王並封の議が起こると、王錫爵に書を送って力争した。少詹事に進んで翰林院の事を掌り、禮部右侍郎に遷り、吏部に改まった。政務に精励で、猟官運動を強く抑え、尚書の李戴に重んじられた。
狄道の山崩れに際する上奏
- 二十七年(1599年)九月、太白と太隂が同時に南中に見え、また狄道で山が崩れ、平地に大小五つの山が湧き出た。琦は上疏の草を作り、尚書の戴とともに上言した。
- 近ごろ太隂が天を経(わた)り太白が昼に見えるだけでも極めて異常なのに、山が陥って谷となり地が湧いて山となるのは、開闢以来ただ唐の垂拱年間にあったのみで、いま再び現れたのである。
- 上天は私心なくただ民の声を聴く。天意に従おうとするならまず民心に順うべきである。近年、天下の賦の額は二十年前と比べて十のうち四が増え、民戸で豊かな者は十のうち五が減った。東に征し西に討ち、みな兵に苦しみ、礦税使が出てからは民間の苦しみはいっそう甚だしい。加えて水旱と蝗の災いで流民が道に満ち、畿輔の近い土地でさえ盗賊が公然と横行している。これは些細な事ではない。
- 中使たちは命を受けて出るや、従える奸徒は動もすれば千百に及ぶ。陛下が商いを通じさせようとしても彼らは商いを困らせ、陛下が民を愛そうとしても彼らは民を害する。近ごろの神奸には二種ある。一つは上意をうかがい、あらかじめ用意した奏を武弁に託して上げさせる者。一つは小民を剥ぎ取ることに努め、成算を立てて中官に託して行わせる者である。仕掛けを動かすさまは鬼蜮のごとく、財を取るには一銭に至るまで搾り、遠近ともに嘆き、貧富ともに困る。
- 貧しい者は蓄えが無く商いだけを頼りとするのに、わずか数銭の利を奪えばその一日の暮らしが絶える。富民はさらに毒害を被り、脱税や盗掘の罪に陥れられ、あるいは塩の密売や材木の盗みと誣告され、詭計をめぐらして威勢を張り、財を得るとしんとして何事も無かったことにする。小民は足を重ねて息をひそめ、身の置き所も無く、利は奸人の群れに帰し、怨みは朝廷に集まる。骨に刺さる窮乏と傷心の痛みを抱えれば、一声で動きやすく、動けば安んじがたい。今日はなお太平でありながら民はすでに騒然としている。もし戦乱の警報でもあれば、天下の誰を保証できようか。
- そもそも巴拜を誅し、關白(豊臣秀吉)が死んだのは、いずれも民の丁を募って兵とし、民の財を用いて糧としたからである。もし一方の窮民が乱を唱え四方が応じたなら、どこから兵を徴し、どこから糧を取るのか。
- 陛下は試みに忠実で親信できる者を遣わし、都城内外の巷の歌謡を採らせて逐一奏上させれば、民の怨みと苦しみは歴然と見えるであろう。天心は仁愛から明らかに咎徴を示し、まことに陛下が翻然と悟り、坐して禍乱を弭めることを望んでいるのである。
- ところが禮部の修省の章はまだ批答も頂かないのに、奸民の搜括の奏はもう許可が下っている。たとえば納何其賢の妄説によって、天下の「無礙官銀」を残らず解送させよとの令である。四方の銭穀にはみな定額があり、「無礙」とは経費の余りを指すのであろうが、近年は徴発が頻繁で正額さえ滞っている。どこから余りが出るのか。この令がひとたび下れば督促は厳急となり、必ず公帑を分けて献上に充て、経費のあてを失って民間に割り当て直すことになる。これは絶対に行ってはならぬ事である。
- また仇世亨が徐鼐の墳墓発掘を奏した一件も、道理から言って一つの墓に黄金巨万を蔵することがあろうか。仮にあったとしても、撫按に下して取り調べさせ、まずその盗墓の罪を正したうえで墓中の蔵を没収すべきである。罪状も明らかでないうちに先に財貨を没入した例は無い。
- 一片の紙が朝に入れば厳命が夕べに伝わり、深い冤罪を抱えても誰が申し開きを引き受けよう。この諸族を破るだけでなく、多くの人に禍が及び、連座があれば忽ち破滅が見える。都のお膝元でさえ三たび覆審を要するのに、万里の外を一方の言葉だけで裁けば、狡猾の徒に生殺の柄を握らせることになる。この風がひとたび唱えられれば、誰が真似ないだろうか。すでに告緡の令(漢の財産告発令)と同じであるうえに、さらに告密の端を開くものである。
- 臣らが訴えようとしているうちに、奸人の奏はもう旨を得ている。五日のうちに天下の公私の金銀を二百万も搜し取った。奸のなかに奸を生じ、例の外に例を創る。臣らは以前は日ごとに減ることを望んでいたが、いまは日ごとに増えることを患えている。民が困り財が尽き、大乱を招くまで止まらないであろう。
- 伏して望むらくは、陛下が静かに遠くを見渡し、速やかに廷臣とともに修省と禍の弭め方を図られ、海内の赤子に朝廷を怨ませ、千秋の青史に聖徳の譏りを残すことのないように、と。返答は無かった。
禮部尚書としての諫言
- ついで左侍郎に転じ、禮部尚書を拝した。
- 帝が東宮を冊立しようとして詔を下したが期日が切迫し、司設監を掌る中官が費用が足りないと言い立てた。𤦺は「今日は礼こそが重い。争ってはならぬ」と言い、弟の戸部主事の瑗がちょうど餉銀四万を運んで都を出るところだったので、𤦺はただちに追いかけて呼び戻し費用に充て、事はようやく成った。
- 三十年(1602年)、帝は病を得て礦税の停止を諭したが、のちに後悔した。琦は同列と連名で上疏して争い、あわせて郊廟の祭享に親臨し正殿で朝を受けるよう請うたが、容れられなかった。
- 湖廣の税監の陳奉が民を虐げて召還されると、折しも陝西で黄河が涸れた。琦は、遼東の髙淮・山東の陳増・廣東の李鳯・陝西の梁永・雲南の楊榮の暴虐は奉に劣らないとして、いずれも召還を乞うたが、いずれも返答は無かった。
- 南京守備の中官邢隆が別に関防(印章)を給して徴税させよと請うたのを琦は認めず、御前牙の関防を給するにとどめさせた。
- 当時、士大夫の多くが釈氏の教えを尊び、士子は文章を作るたびにその語を盗み、経書の伝注を軽んじていた。前の尚書余繼登が禁令を請うたが習俗は変わらず、琦はあらためてその弊を極言し、帝はこれによって詔を下して戒め励ました。
- 琦は典故に明るく学問に根柢があり、しばしば正論を陳べ、内外はその風采を慕い、帝もまた深く信任した。
- 内閣に欠員が出たとき、帝はすでに朱國祚と琦を選んでいたが、沈一貫がひそかに上申して「二人は年がまだ壮年に届かない。しばらく待って先に老成の者を用いるべきだ」と言い、沈鯉・朱賡に改めて命じられた。
- 𤦺はもともと病がちで、このとき重篤となり、十六度も上疏して引退を乞うたが許されず、官にあるまま没した。年わずか四十六。
- 遺疏は、明察と実行を励むこと、章奏を裁可して下すこと、欠官を補うこと、誠意をもって下に接すること、人心を収拾することを請い、言葉は極めて懇切であった。帝は悼み惜しみ、太子少保を贈った。天啓の初め、文敏と諡された。
馮氏一族――附伝
- 𤦺の曽祖の裕以下、代々みな進士である。裕は字を伯順といい、戍籍として遼東に生まれ、賀欽に師事して学行があり、雲南副使で終わった。祖の惟重は行人、父の子履は河南參政。從祖の惟健は挙人。惟訥は字を汝言といい、江西左布政使、光禄卿を加えられて致仕した。惟重・惟健・惟訥はみな文名があり、惟訥がもっとも著名であった。
- 惟健の子の子咸は字を受甫といい、幼くして父を失い、母に孝を尽くし、母の病には一年余り衣を解かずに看病し、母が没すると哀しみのあまり骨と皮になった。萬厯元年(1573年)郷試に及第したが、再び会試に落ちてからは二度と赴かず、濂洛の学(周敦頤・二程の学)を講求した。
- かつて「学問には剛と恒とが必要である。剛でなければ崩れ、恒でなければ退く」と言った。家を治めるには顔氏家訓を宗とした。鍾羽正は子咸を評して「道を信じて仕えを忘れるのは漆雕子、経を循り古を蹈むのは髙子羔である」と称した。