明史卷二百十六 列傳第一百四 瞿景淳

出自と鄭王世子の冊封

  • 瞿景淳は字を師道といい、常熟の人。八歳で文章を作れたが、長く諸生のまま不遇で、その間は郷里で教授して生計を立てた。
  • 嘉靖二十三年(1544年)、会試首席・殿試第二で及第し、編修に任じられた。
  • 鄭王厚烷が言事によって廃され鳳陽に移されたとき、景淳は勅を奉じてその子の載堉を世子に封じ国事を摂らせた。世子は内心恐れて重い贈り物をしたが、景淳は退けた。当時、正使の恭順侯呉繼爵はすでに贈り物を受け取っていたが、恥じて景淳とともに謝辞した。のちに景淳に「主上は使者を遣わして内情を密かに探らせていた。あなたがいなければ私は危うく法に触れるところだった」と語った。

嚴嵩に倭患を説く

  • 在職九年を満たして侍讀に遷り、急を請うて帰郷した。
  • 江南は長く倭寇に苦しみ、總督の胡宗憲の軍はまだ勝利を得ていなかった。景淳が帰京して大學士嚴嵩に謁すると、嵩は「倭は朝夕のうちに平らぐ。胡總督の才は十分に事に当たる。南方の者が彼をそしるのはなぜか」と言った。
  • 景淳は色を正して答えた。「相公は遠くから推し量っておられるだけです。景淳は南から来て倭の害を目のあたりにしました。胡君は十万の兵を擁して坐したまま、南方の人々は枕を高くして眠れません。相公が耳を貸そうとされないなら、誰が申し上げるのですか」。嵩は驚き、謝した。

禮部左侍郎と晩年

  • 侍讀學士として翰林院の事を掌り、太常卿に改まって南京の祭酒の事を領し、そのまま吏部右侍郎に遷った。
  • 隆慶元年(1567年)、禮部左侍郎に召され、永樂大典の総校の功により翰林院學士を兼ね、二品の俸を支給され、経筵に侍り、嘉靖實録の修撰に当たった。
  • 病を発して累りに骸骨を乞い帰郷、一年余りで没した。禮部尚書を贈られ、文懿と諡された。
  • 編修として制誥を掌っていたころ、錦衣の陸炳は前後四人の妻があり、最後の妻を封じてもらおうとして景淳に文案を書かせようとしたが応じず、嚴嵩を介して頼んでも応じず、金を包んで投じても最後まで笑って断った。

瞿汝稷――附伝

  • 子は汝稷と汝說。汝稷は字を元立といい、学を好み文章に巧みで、蔭によって官に補せられ、三たび遷って刑部主事となった。
  • 扶溝の知縣が宗室の者を笞打った件で、神宗は重い処分を命じたが、汝稷は「その者は微行して県の役所に至ったのだから、官が笞打ったのは扶溝の一民にすぎない」と論じ、上申の結果ついに釈放を得た。
  • 黄州知府を歴任、邵武に移り、さらに辰州を守った。永順の土司彭元錦がその弟である保靖の土司象坤を助けて酉陽の冉御龍と殺し合ったとき、汝稷は檄を飛ばして元錦に兵を退かせ、三つの土司はいずれも安んじた。
  • ついで長蘆鹽運使に遷り、太僕少卿で致仕し、まもなく没した。

瞿汝說――附伝

  • 汝說は字を星卿といい、五歳で父を失った。文章ができあがるたびに父の位牌の前に跪いて供えた。
  • 萬厯年間に進士となり、官は湖廣提學僉事に至り、やはり剛正で聞こえた。子の式耜には別に伝がある。