明史卷二百十六 列傳第一百四 陸𣗳聲

出自と再三の辞退

  • 陸𣗳聲は字を與吉といい、松江華亭の人。はじめ林姓を冒していたが、貴顕となって本姓に復した。家は代々農を業とし、樹聲は若いころ自ら田を耕し、暇があれば読書した。
  • 嘉靖二十年(1541年)の会試に首席で及第、庶吉士に選ばれ編修に任じられた。三十一年(1552年)急を請うて帰郷し、父の喪に遭う。久しくして南京司業に起用されたが、まもなくまた休暇を請うて去った。
  • 左諭徳として南京翰林院を掌ることになり、ついで春坊に召還されたが赴かなかった。久しくして太常卿として南京の祭酒の事を掌り、学規を厳しく定め、条教十二か条を著して諸生を励ました。
  • 吏部右侍郎に召されたが病を理由に拝命せず、隆慶年間に再び旧官に起用されても就かなかった。神宗が位を継ぐと、在家のまま禮部尚書に任じられた(1572年)。
  • はじめ樹聲がたびたび朝命を辞したので、内外はその風節を高しとし、要職に欠員が出ると必ず真っ先に樹聲を挙げ、来てくれないことだけを恐れた。

張居正との距離

  • 張居正は国政を握ると、樹聲を得ることを重んじ、後進の礼をとってまず自ら訪ねた。樹聲は黙然と向かい合い、あまり打ち解ける様子もなく、居正は失望して去った。
  • ある日、公事で政府に赴いたとき、席がやや外れて設けられていた。樹聲はじっと見つめて着席せず、居正はあわてて席を正させた。その筋の通し方はこのようであった。
  • 北方(北部)が歳幣の増額を求め、兵部が承諾しようとしたとき、樹聲は力を尽くして争った。
  • 年末に各地の災異を挙げ、帝に旧来の法度に従うこと、上奏の裁決を省くこと、賞与を慎むこと、言路の塞がりを防ぐこと、直言を容れること、倹徳を尊ぶこと、人事の大権を自ら握ること、忠邪を見分けることを請い、詔はいずれも嘉納した。

致仕と晩年

  • 萬厯改元(1573年)、宦官たちは樹聲を快く思わず、たびたび㑹極門に呼び出して旨を受けさせ、しかも頻りにせき立てた。行ってみると曹司の日常の事務にすぎない。樹聲はその意図を察し、続けて上疏して引退を願い出た。
  • 居正はその弟の樹徳に「朝廷はまもなく平泉どのを宰相にするだろう」と語った。平泉とは樹聲の別号である。樹聲はこれを聞いて「一介の史官が朝廷を離れて二十年、いまさら宰相の席を望むものか。それに空しく引き留められて何の益があろう」と言った。
  • その冬、辞意はいよいよ強く、駅伝の車に乗って帰るよう命じられた。朝廷に別れを告げるにあたり時政十事を陳べ、多くが的を射ていたが、聞き置くとされただけであった。
  • 居正は宿舎まで来て別れを告げ、後任に誰がよいかを問うた。樹聲は萬士和・林燫を挙げた。都の門を出るとき、士大夫が町を挙げて見送りに追ったが、いずれも会わずに謝した。
  • 樹聲は端正で淡泊、超然として物外にあり、進み出ることに慎重で退くことに潔かった。官籍にあること六十余年、実際に官に在った期間は十二年(一紀)にも満たない。徐階とは同郷、高拱とは同年の生まれで、両人が相次いで国政を握ったが、いずれにも病と称して出仕しなかった。居正に推されながら、ついに与しなかった。
  • のち規定どおり廩米と従者を給され、太子少保を加えられ、重ねて使者を遣わして安否を問われた。弟の樹徳には別に伝がある。
  • 子の彦章は萬厯十七年(1589年)の進士。樹聲は館選(庶吉士の選抜)に応じるなと戒め、彦章は行人のまま親の終養に就いた。詔で月俸を給されたのは異例の待遇である。
  • 樹聲は九十七歳で没し、太子太保を贈られ、文定と諡された。彦章は節操があり、官は南京刑部侍郎に至った。