明史卷二百十六 列傳第一百四 呉山

篇首の立伝者一覧

  • 呉山
  • 陸𣗳聲(子の彦章)
  • 瞿景淳(子の汝稷・汝説)
  • 田一儁(沈懋學、懋學の從孫の夀民)
  • 黄鳯翔(韓世能)
  • 余繼登
  • 馮𤦺(從祖の惟訥、從父の子咸)
  • 王圖(劉日寧)
  • 翁正春
  • 劉應秋(子の同升)
  • 唐文獻(楊道賓、陶望齡)
  • 李騰芳
  • 蔡毅中
  • 公鼐
  • 羅喻義
  • 姚希孟
  • 許士柔
  • 顧錫疇

出自と官歴

  • 呉山は字を曰靜といい、髙安の人。嘉靖十四年(1535年)の進士及第で編修に任じられ、累進して禮部左侍郎に至った。
  • 三十五年(1556年)に吏部へ移り、まもなく王用賔に代わって禮部尚書となる。翌年(1557年)太子太保を加えられた。

嚴嵩父子との対立

  • 山は嚴嵩と同郷であった。嵩の子の世蕃が大學士李夲(李本の誤りか)を仲立ちに山を招いて酒宴を設け、縁組を求めたが、山は承知せず、世蕃は不快のまま終わった。
  • 帝が山を内閣に入れようとしたとき、嵩がひそかにこれを阻んだ。
  • 府丞の朱隆禧は勤務評定で罷免されたのち、方術を献じて禮部侍郎の官を加えられた者だが、その死に際して弔慰の恩典を願い出たとき、山は頑として認めなかった。

景王の之藩

  • 裕王・景王の二邸が並び立ち、皇太子(國本)は定まらないままであった。
  • 三十九年(1560年)冬、帝が突然、禮部に景王の之藩(封地への赴任)の儀礼を用意せよと諭した。嵩は、帝が郭希顔の上疏に刺激されて人心を探ろうとしているだけだと見抜き、山に王を都に引き留めるよう仕向けた。
  • 山は「朝廷も民間もこれを待ち望んで久しい」と言い、ただちに儀礼を整えて奏上し、景王はついに封地へ去った。
  • 司禮監の黄錦はかつて山にひそかに語った。「あなたはいずれ庶民でいられれば幸いというところだ。王の之藩は帝の本意ではない」と。

日食の賀を拒む

  • 翌年(1561年)二月朔日は日食に当たったが、うすく曇っていたため、暦官は日食が見えなければ食が無いのと同じだと言った。嵩はこれを天の加護として、禮部に急ぎ賀表を上れとせき立てた。侍郎の袁煒も同調した。
  • 山は空を仰いで「日はまさに欠けつつある。誰を欺こうというのか」と言い、平素どおり救護の儀礼を行った。
  • 帝は激怒し、山は罪を引き受けた。ところが帝は、山は礼を守ったのだから罪はないとし、かえって禮科に弁明を求めた。給事中の李東華らは恐れおののき、山を弾劾して自分たちも同罪にしてほしいと願い出た。帝は山を「正直を売って名を釣る」と責め、東華の俸給を停めた。嵩が罪は部の長官にあると言うと、帝は東華らを赦し、山の罪は当面記録にとどめよと命じた。
  • 吏科の梁夢龍らは、帝の山への怒りがはなはだしいのを見、また山だけを弾劾するのを嫌って、吏部尚書の呉鵬も併せて弾劾した。詔で鵬は致仕、山は官位を帯びたまま閑職に置かれた。当時の人はみな山を惜しみ、鵬が去ったことを大いに喜んだ。
  • 穆宗が即位(1567年)すると南京禮部尚書に召されたが、固辞して赴かなかった。没後、少保を贈られ、文端と諡された。