明史卷二百十四 列傳第一百二 葛守禮

出自と初任

  • 葛守禮は字を與立といい、徳平の人。嘉靖七年(1528年)に郷試で第一となり、翌年(1529年)進士となって彰徳推官に任じられた。
  • 大盗が富家を誣告して連座した者が百を数えたが、守禮はすべて釈放した。獄を主管する者が御史に讒言した。折しも藩府の獄が長らく決しないでいたのを守禮に委ねたところ、一度の訊問で解決したので、大いに驚いて心服した。
  • 冬至に趙王が百官に朝服で祝賀するよう命じたとき、守禮ひとり不可とした。

礼部での封爵の争い

  • 兵部主事に遷った。父の喪に服し、明けて禮部に補された。
  • 寧府の宗人はみな高牆に幽閉されていたが、のちしだいに脱け出す者があり、封爵を請うた。禮部尚書の夏言は中尉数人分だけ復すべきだと議したが、上奏しないうちに言が入閣し、嚴嵩が代わった。守禮はちょうど儀制郎中に移っており、論駁して通さなかった。
  • 旧例では郡王が絶えた場合、近い支族が本来の爵位のまま府の事を処理できるが、継承して封じられることはできなかった。交城・懷仁・襄垣の近支が絶えたとき、継封を願い出たが、守禮は固く反対した。折しも病で休暇をとっている間に、三邸の者が隙をついて賄賂を使い、願いが通った。
  • 旗校がその件を探索して上聞し、賄賂の記録は十余万に及んだが、そのなかに守禮の名だけがなかった。帝はこれによって守禮の廉潔を知った。

地方歴任と勒致仕

  • 河南提學副使に遷り、ふたたび山西按察使に移り、陝西布政使に進み、右副都御史に抜擢されて河南を巡撫した。中央に入って戸部侍郎となり宣大の兵糧を督した。吏部に移り、左侍郎から南京禮部尚書に遷った。
  • 李本が吏部の事を代行し、嚴嵩の意を迎えて廷臣を考察したとき、守禮を下考に置いて致仕を強いた。のち帝が守禮はどこにいるかと問うたところ、左右は老病だと偽って答え、帝はしばらく嘆き惜しんだ。

隆慶初の戸部尚書と賦役の建議

  • 隆慶元年(1567年)に戸部尚書に起用された。上奏して言った。畿輔と山東で流亡する者が日ごとに増えているのは、担当官が法を変え常を乱し、課税が重すぎ徴発が不均等なためである。また河南・河北・山東・山西は土地が痩せて正税すら納めきれないのに、さらに徭役を重ね、工匠や富商・大賈はみな田がないという理由で役を免れ、農夫だけが苦しみを受けている。これは筋が通らない。田賦の規を正し、科差の法を罷めていただきたい、と。
  • また言った。国初の徴糧では、戸部が倉庫の名目と石数・価値を定めて担当官に通達し、小民に分けて割り当て、倉に随って納めさせたので、完納と未納の数がはっきり調べられた。近ごろは一条鞭法と定めて畝ごとに銀を徴し、倉口も石数も問わないので、吏書がこれに乗じて不正を働き、増減や割り付けの弊害が続出している。徴収と上納にいたってはさらに一串鈴法に変じ、これを「夥收分解」と呼ぶ。収める者は上納せず、上納する者は収めない。収める者は余剰を懐にし、上納する者は補填の負担を負う。そもそも銭穀は数を分けて明らかにしてはじめて調べが行き届くのに、いまは混ぜて一つにしている。これでは融通の対象は土地そのものになってしまう。担当官に勅して旧規に復すよう酌量させていただきたい、と。詔ですべて実施された。
  • そこで国計簿の書式を定めて天下に頒行するよう上奏し、嘉靖三十六年以後の完納・未納・起解・追徴の数、および貧民で納入できない分をことごとく簿に記録し、府・州・県から布政司に達し戸部に送って調査させることとした。
  • また、戸部が財賦を専管する以上、天下の倉庫の盈虚をあまねく知ってはじめて節減と調整ができるとし、祖宗の時に天下から毎年文冊を部に報告させた例にならって、御史の譚啓・馬明謨・張問明・趙巖を分けて天下に派遣しこの事を監督させることを請い、あわせて勅を承けて実行させた。
  • 恩沢の例により辺軍に賞を与えたとき、兵籍に空名の水増しがあるから賞を与える機会に汰減すべきだと言う者があったが、守禮は「これは朝廷のまれな恩典である。それで恨みを買うのか」と言い、議はやんだ。

高拱・張居正のあいだで

  • 大學士の髙拱が徐階と折り合わず、朝廷こぞって拱を攻めたとき、侍郎の徐養正・劉自強は拱に厚遇されていたにもかかわらず守禮を訪ねて同調を求めたが、守禮は承知しなかった。養正らはそのまま拱を弾劾した。守禮はまもなく母の養育を願い出て帰郷した。
  • 拱が再び宰相となると守禮の態度を深く徳とし、刑部尚書に起用した。
  • はじめ徐階が方士の王金らの獄を定めたとき、みだりに薬物を進めた罪で、子が父を殺した律になぞらえて死罪と論じた。詔で法司に下して会同訊問させたところ、守禮らは、金がみだりに薬を進めたという事実はないが、故の陶仲文の術を習い左道で衆を惑わしたのだから、従犯の律に当てて編戍とすべきだと議した。
  • 給事中の趙奮が言った。法司は天下の公平をつかさどるものなのに、以前はもっぱら罪に入れることばかりで先帝のために配慮せず、いまはもっぱら罪から出すことばかりで後世の議を顧みない。罪には首犯があってはじめて従犯がある。金らが従犯なら誰が首犯か。陶仲文を首犯とするなら仲文はすでに死んで久しい。法がこうであれば陛下は何を頼りにされるのか、と。疏は上がったが、聞き置くとの返答であった。
  • まもなく守禮は左都御史に改まった。上奏して、畿内は地勢が低く河道が塞がっており、大雨があれば千里が沼となるとして、古の井田の制にならって溝洫を浚い、旱と水害に備えることを請い、その章は担当官に下された。また巡撫の職務について申し明かし、官箴と士節について六事を条陳した。
  • 守禮は王金の獄の議では拱と一致したが、拱に阿ったわけではない。のち張居正が王大臣の事で拱を陥れて殺そうとしたとき、守禮が力を尽くしてとりなしたので免れた。階・拱・居正が代わる代わる権を握って互いに軋轢したが、守禮はそのあいだを周旋しながら正色して独り立ち、人々は難しいことだとした。
  • 萬厯三年(1575年)に老齢を理由に辞職を願い、詔で太子少保を加えられ駅伝で帰った。六年(1578年)に卒し、太子太保を贈られ、諡は端肅。